白い雲、灰色の空

きくぞう

第1話 灰の中の産声

 その夜、空は慈悲の欠片もない雪を降らせていた。


 村の端、家畜の死骸や壊れた什器、そして人々の忌避する「汚れ物」が捨てられる『灰捨て場』。そこには、一つの小さな、しかし不気味な塊が置かれていた。


 生まれたばかりの赤ん坊だった。本来なら祝福の産声を上げるはずのその喉は、凍てつく冷気に鳴りを潜め、ただ浅い呼吸を繰り返している。その瞳は、右が夜のように暗く、左が不吉なほど澄んだ金色をしていた。この地で「忌み子」と呼ばれる、災いの証。親が流した涙さえも、赤ん坊の頬で凍りつき、氷の仮面となってその顔を覆っていた。


「……じいさん、待っておくれ。あそこで何かが動いたよ」


 雪を漕いでやってきたのは、二つの影だった。  腰の曲がった老爺と、ボロボロの綿入れを重ね着した老婆。彼らは村で最も貧しい小作人だった。誰かが捨てた燃え残りの炭や、まだ使える布切れを拾い集めなければ、明日の命も危うい、世界の隅に追いやられた二人。


「気のせいだろう、ばあさん。こんな夜に生きているものなど……」


 老爺が言葉を濁したのは、灰の山から突き出た、赤黒く変色した小さな手が見えたからだった。


「おお、なんてことだ……」


 老婆は膝をつき、灰を素手で掻き分けた。現れたのは、凍え死ぬ寸前の忌み子。その金色の瞳が、最期の力を振り絞るように老婆を見つめる。村の者がこれを見れば「悪魔の目だ」と石を投げたに違いない。だが、老婆が感じたのは恐怖ではなく、胸が張り裂けるような痛みだった。


「じいさん、この子、笑ったよ」


 実際には、寒さで顔が引き攣っただけかもしれない。けれど老婆には、その子が「助けて」と笑ったように見えた。彼女はためらうことなく赤ん坊を抱き上げ、冷え切った自分の胸元に押し込んだ。


「ばあさん、それは忌み子だ。連れて帰れば、村に何を言われるか……」


「構うもんかね。こんなに一生懸命、生きようとしているじゃないか」


 老婆は懐から、カチカチに凍った『黒パンの耳』を取り出した。それは、今日一日の彼らの唯一の食事だった。彼女はそれを自分の口に含み、体温で柔らかくなるまで何度も噛み、指の先に載せて赤ん坊の唇に触れさせた。


 赤ん坊は、本能的にその泥のような味のするパンに吸い付いた。ゴリゴリと喉を鳴らし、命を繋ごうとする小さな生き物。


「……ルカ。ルカにしよう、じいさん。私たちの暗い夜を照らしてくれる、小さな光だ」



 あれから、十二年の月日が流れた。


 ルカを拾った老夫婦の暮らしは、相変わらず世界の底を這うような惨状だった。村外れに建つあばら家は、冬になれば隙間風が牙を剥き、夏になれば湿った土の匂いと虫が支配する。だが、ルカにとってそこは、唯一「化け物」と呼ばれずに済む聖域だった。


「ルカ、あまり無理をするんじゃないよ。お前はまだ、体が細いんだから」


 老婆――サラは、節くれだった手でルカの頬を撫でた。ルカは今年で十二歳になった。忌み子の証である金色の左目は、成長とともにその輝きを増し、不気味なほどに美しい。村の子供たちが「呪われる」と囃し立てて石を投げるたび、ルカは黙って背中でそれを受け、老夫婦の元へ帰った。


「大丈夫だよ、カカ(母さん)。今日はギルドの裏で、荷運びの手伝いがあるんだ」


 ルカは努めて明るく笑ってみせたが、その胸中は冷え切っていた。サラと、その夫であるロトの衰えは、もはや隠しようがなかった。小作人としての労働は老いた体に酷であり、二人の食事は日増しに細くなっている。


 その日の夕食も、皿の上には一切れの黒パンが載っているだけだった。家畜の餌に混ぜるような、麦の殻が混じった黒くて硬いパン。ロトがそれを口に運び、力を込めて噛もうとする。だが、歯を失い、痩せこけた歯茎では、石のようなパンを砕くことはできなかった。


「……っ、げほっ、ごほっ!」


 パンの欠片を喉に詰まらせ、ロトが激しく咳き込む。サラが慌てて水を飲ませ、背中をさする。ルカは、その光景を拳を握りしめて見つめていた。二人は自分を拾い、育ててくれた。自分の食い扶持を削ってまで、この忌み子に命を繋いでくれた。それなのに、自分は二人に満足な食事一つ与えられない。


「じいさん、無理をしないで。お湯に浸して、もっと柔らかくしてから……」


「……すまない、サラ。情けないことだ。せめて、もう少し柔らかいパンを、お前にも食わせてやりたいんだがな……」


 ロトが力なく笑う。その笑顔の向こうに、ルカは見てしまった。明日をも知れぬ命の灯火が、今にも消えようとしているのを。


(柔らかいパン。歯がいらないくらい、ふっくらとした、温かいパン……)


 ルカの脳裏に、以前、街の大きなパン屋の店先で嗅いだ香りが蘇った。真っ白な小麦を使い、たっぷりの酵母で膨らませた、貴族や裕福な商人が食べる「白パン」。 一個で銀貨一枚。銅貨にすると百枚分。自分たちのような者が、一ヶ月かけてようやく稼げるかどうかという大金だ。


(あのパンなら、トト(父さん)もカカも、喉を詰まらせずに食べられるはずだ)


 一度そう思うと、もう止まらなかった。ルカは立ち上がり、静かに家を出た。夜の村を歩き、かつて自分が捨てられた『灰捨て場』を通り過ぎ、街のギルドへと向かう。


 忌み子の自分に、まともな仕事などない。誰もが嫌がる下水掃除、死んだ家畜の解体、疫病で死んだ者の遺品整理。泥と、血と、排泄物にまみれる仕事。それでもいい。ルカの心には、あの日、灰の中で自分に命をくれた「あの硬いパンの耳」への、あまりに巨大な恩義があった。


(白パンを買うんだ。二個……いや、三個だ。三人が、お腹いっぱい、あの白いパンを笑って食べられる日まで)


 ギルドの受付にいた男が、ルカの金色の目を見て、地面に唾を吐いた。


「なんだ、忌み子か。……汚ねえ仕事ならあるぞ。報酬は銅貨一枚だ。やるか?」


「やります」


 ルカは迷わず答えた。その金色の瞳には忌み子には相応しくない強い光が宿っている。固い決意を胸にルカの物語が始まろうとしていた。

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