第3話傷だらけの少年と、夜明けのスープ

目を覚ました瞬間、アーロンは体を強張らせた。


 


知らない天井だった。

木の梁が走り、窓から差し込む朝の光が、淡く板張りの床を照らしている。


 


——どこだ、ここは。


 


起き上がろうとして、肋骨の奥が軋んだ。

思わず息を詰め、布団を握りしめる。


 


昨日の夜。

父と母は殺された。

自分もその場にいた。


 


それなのに、今こうして生きている。


 


部屋は狭いが、整っていた。

棚と机がひとつ、窓際には水差しと皿。

土壁と木床。乾いた木の匂い。


 


——何より、この部屋には“臭い”がなかった。


 


酒も、煙草も、腐肉も。

あの屋敷に染みついていた脂と湿気の気配が、どこにもない。


 


アーロンは唾を飲み込んだ。


 


“汚れていない場所”にいることが、ひどく落ち着かなかった。


 


布団から這い出し、裸足で床に立つ。

冷たさに身をすくめる。だが、不快ではない。


 


何かに触れている。

それだけで、現実に戻された気がした。


 


そのとき、扉の向こうで小さな音がした。


 


反射的に壁へ身を寄せ、息を止める。


 


だが扉は開かず、何かをそっと置いていく気配だけが残った。


 


恐る恐る扉の下を覗く。


 


湯気の立つ皿と、ひとかたまりのパン。


 


スープの香りが、静かに鼻をくすぐった。


 


その瞬間、胃が鳴った。

けれど、アーロンは一歩下がる。


 


毒かもしれない。

罠かもしれない。


 


——そう教え込まれてきた。


 


食べ物は報酬か、罰の後の気まぐれ。

何かを与えられるとき、必ず“代償”があった。


 


足音が近づく。


 


扉の向こうに、人の気配。


 


「……無理に食うな。食えなきゃ、片づけるだけだ」


 


低く、淡々とした声。

脅しでも命令でもない。ただの事実。


 


足音はすぐに遠ざかった。


 


しばらくして、アーロンは皿を手に取った。

パンは柔らかく、まだ温かい。


 


——誰かが、自分のために用意した。


 


その事実が、胸の奥をわずかに痛ませた。


 


スープは薄く、やさしい味だった。

根菜と豆、細かく刻まれた肉。


 


喉が詰まりそうになる。


 


空腹のせいじゃない。

“向けられた配慮”に、体が慣れていないだけだ。


 


器を戻すと、床に水桶と布、丸めた着替えが置かれているのに気づいた。


 


使っていい、ということだろう。


 


服を脱ぎ、水で体を拭く。

古傷に触れるたび、過去がよみがえる。


 


服を脱がされるときは、いつも痛みが待っていた。


 


だから、何も起こらないこの静けさが、怖かった。


 


再び足音。


 


思わず体を抱くように縮こまる。


 


だが、扉は開かない。


 


「……着替え、置いといた。合わなきゃ言え」


 


短い声。

距離を詰めすぎない、素っ気ない言い方。


 


それが、なぜか息を楽にした。


 


着替えに袖を通す。

繕われた布のやわらかさに、思わず指を止める。


 


これまで着ていたのは“物”だった。

今、身につけているのは“人の服”だった。


 


昼を少し過ぎたころ。


 


扉が、そっと開いた。


 


入ってきたのはアーデン。

手には二本の木刀。一本は明らかに子ども用だ。


 


言葉はない。


 


だが、その動きだけで理解できた。


 


——訓練だ。


 


床に木刀が置かれる。

扱いは丁寧で、慎重だった。


 


一太刀。

ほとんど音もなく、空を斬る。


 


視線が向けられる。


 


「来い」


 


そう言われた気がした。


 


アーロンは震える手で木刀を取る。

構えは拙く、形にもならない。


 


それでも、アーデンは何も言わない。


 


ただ、同じ動きを繰り返す。


 


十分も経たず、膝が崩れ、尻もちをついた。


 


アーデンが近づく。

怒りも、焦りもない。


 


しゃがみ込み、布包みを置く。


 


「……水と、パン。ゆっくり食え」


 


その声に、わずかなやわらかさがあった。


 


アーロンは、初めてその顔をしっかりと見た。


 


無表情の奥に滲むもの。


 


——間違えたくない、というためらい。


 


パンをかじる。

硬いが、甘みが広がる。


 


美味しい、と感じたのはいつ以来だろう。


 


否定されていない。


 


それだけが、今のアーロンを支えていた。

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天翳なき瞳 ――禊の旅路を歩む者―― @etu0815

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