1-9
横断歩道の手前で、
「待てって!」
後ろから腕をつかまれた。
のろのろと一条君の方へ向き直った。でも顔を見ることはできなかった。
わかってる。どんなに言いたくないと思っても、言わなくてはいけないこと。
せり上がってくる大きな塊を無理やり押し込め、口を開いた。
「ごめんなさい」
涙が落ちてしまわないように何度もきつく瞬きをする。
「ふ、振られたのに……ああ、あんなことして……」
もう、目を開けることができない。開けたら、涙がこぼれてしまう。
一条君は、腕をはなした。
覚悟した。一番言われ慣れてるけど、一番嫌いな言葉。
――やっぱり遊んでるんだね。
違うのに。そうじゃないのに!
そう思いながら固く目を閉じる。
「振ったつもりはないけど」
ほら、やっぱり!
「さよなら」と、踵を返しかけて、あれっと思った。
今、なんて言った?
恐る恐る顔を上げたら、呆れたような一条君の視線にぶつかった。
「高梨さん、何かいろいろ勘違いしてないか?」
「……え?」
「さっきからずっと会話がかみ合ってないような気がする」
傷ついたようにため息をついた。
「もう少し俺のこと、信じてほしい。……まあ、最初に誤解させるようなことを言ってしまったから、仕方ないとは思うんだけど」
そこで再び、桃花に言われた言葉が脳裏をよぎった。
――頭でっかちになるんじゃないよ。
――薫子はいざってなると必ず昔の悪い経験を思い出して、すべてを悪い方に解釈してしまうところがある。
すっかり悪い思い出に囚われてしまっていた。
さっきまでの自分の言動を思い出した。
……自分から告白したくせに「冗談」って言うとか。勝手に「ワンナイトに誘ったと思われた」と勘違いしたり。一条君が「そうじゃない」って言ってるのに「それだけでも救われる」とか。同意もないのにキスしたくせに、勝手に振られた、って思いこんだり。
恥ずかしくて……死にそう……。
「……ごめん、なさい」
ひたすたら固まっていると、一条君は、探るように聞いてきた。
「謝んなくていいよ。多分だけど……高梨さんさ、今まで、嫌な思いばかりしてきたんじゃないか?」
「……え?」
恥ずかしいのも忘れて顔を上げてしまった。
「そ、そう。そうなの!」
我知らず涙がにじんでくる。
「なんでわかるの……?」
一条君は自分のことのように苦しそうに表情を歪めた。
「だってあからさまじゃないか。女性は妬んでるみたいだし、男性は陰であることないこと言ってるくせに、こそこそ高梨さんのこと誘ってるし」
目をのぞきこんできた。
「辛かったな」
小さく頷いた。
涙がこぼれそう。だって今までそんな風に言ってくれた人、一人もいなかったから。
一条君は続けた。
「半年前、新宿の本屋で会ったとき……必死で自分を守ってた。一人で戦ってた。あのとき何もできなかったこと、ずっと後悔してた」
「覚えてて……くれたの……?」
「当たり前だろ? ……でも高梨さんはみんなと仲がいいし、いろんな人から誘われてたから、俺なんか眼中にないんだろう、って諦めてた。それなのに君が他の男といると、くやしくてつい、意地悪を言ってしまった。一緒にいても自信がないから、試すようなことをしてしまった。そんなことしたら信用を失うってわかってるのに」
大きなため息をついた。
「今日あの店を選んだのだって、怖がらせるつもりじゃなかった。ただ……喜んでもらいたかっただけなんだ」
後悔するように、小さく唇を噛んだ。
言葉の意味がわかりはじめるのと同時に、体から力が抜けていった。
「そう、なの……?」
「ほんとに、ごめん」
こらえていたはずの涙がこぼれた。
「俺を見て」
恐る恐る顔を上げた。一条君はまっすぐわたしの目を見つめた。
「もう、ほかの男とデートしないでくれないか? ……俺とつきあってほしいんだ」
聞き間違い、かと思った。
「え、うそ……」
「なんで嘘でこんなこと言うんだよ」
半分呆れたみたいに言ったあと、困ったように笑った。
あっ、と思った時には抱きしめられていた。優しいコロンの香りに、その温かさに、包まれるような感覚に、力が抜けていった。
「ごめん。……ごめんな」
ずっと我慢してきた。遊び人扱いされるのがいやだった。こわかった。
ただ……好きな人に、愛されたかった。
声をあげて泣いた。今まで我慢し続けてきた気持ちが涙といっしょにあふれでた。しゃくりあげるたびに一条君は、「大丈夫。大丈夫だから」と、髪をなでてくれた。
「でも、でも、わたしなんかとつきあったら、みんなに色々言われちゃう」
「言いたい奴には言わせておけばいいよ。俺は気にしないから」
少しもためらいを感じなかった。そんな風に言われたら、涙が止まらなくなる。
もう一回、一条君の腕の中でひとしきり泣いた。
どれくらいそうしていただろう。
わたしが落ち着くのを待って、一条君は言った。
「もう意地悪は言わない。気持ちを試したりしない。無理に押し倒すようなこともしないし、勝手に部屋をとったりもしない。高梨さんを泣かせるようなことは、絶対しない。約束する」
うなずいたら、指で涙をぬぐってくれた。
「でも、これだけは許して」
優しく見つめられた。
その指が頬を伝ってあごで止まり、そのまま上を向かされた。見つめられたら、ドキドキしすぎて身動きが取れなくなった。
顔をかたむけ、近づけてくる。
唇が重なった。
うれしくて夢のようで、胸がふるえた。
一度顔を離し、ためらいがちに見つめてきた。
「初めて、だったんだろ?」
バレてたんだ。あの、ぶつかるみたいなキス。
……仕方ない。だって、今まで誰ともつきあったことがないんだから。
恥ずかしかったけれど、小さくうなずいた。一条君も優しく笑った。今日、初めて見たいつもの笑顔だった。
「だったらいい思い出にしよう」
どちらからともなく目を閉じる。何度か軽く合わせたあとは、焦らすみたいにゆっくり長く。
体が溶けてしまいそう。
吐息が熱を帯びた。
そして、一条君は言った。
「君が好きだよ」
「高梨薫子と一条君」おわり
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