1-3

 靴音がした。

「あー、高梨さん。まだいたんだ」

 あわててスプレーから指を離し、すがるように顔を向けた。

「一条君!」

 カバンを持った一条君が、呆れたようにわたしたちを見ていた。

 ほっとした。心からほっとした。緊張が解けて、今にも座りこんでしまいそうなわたしの向かいで、三枝はあからさまに顔をこわばらせた。

 一条君はつかつかと近寄ってきて、

「彼女、帰るんだってさ。じゃあ、お疲れ」

 と、わたしの手首をつかんだ。何かを感じた胸がどきん、とはねた。引っ張られるみたいにして歩き出したら、三枝は周囲に聞こえるくらいの声で叫んだ。

「こいつとならヤるのかよ!」

 ふざけんなーーーーーっ! これ、誰かに聞かれてたら、また後で噂になるやつじゃん。武田のとき、陰で散々言われたばかりなのに!

 今回ばかりは本気でキツい。

 けれども一条君は足を止め、真顔で振り返った。

「高梨さんがそんなことするわけないだろ? お前も飲みすぎだって」

 ……え?

 じん、と、きた。なんか……本気で泣きそう。だって、今までそんな風に言ってくれた人、一人もいなかったから。本当にそう思ってくれてるわけじゃない、ってことくらいわかってる。それでも、感動で涙をこらえるのに必死だ。……と。

 改めて一条君を見た。にこりともしない。

 あれ? と思った時だ。

「待てよ!」

 三枝が動いた。わたしたちは顔を見合わせた。

「……走るよ」

 エレベーターの脇を抜けて階段を駆け下り、店の外に飛び出した。

 もうすぐ十二月。街はクリスマスのデコレーションで飾り立てられていてとてもきれい……だなんて、そんなの楽しんでる場合じゃないっ! 人混みを縫うようにして走る。何回か角を曲がり、ビルの間の路地を通った。反対側に抜けた時、

「ごめん、もうダメ。限界」

 これ以上走れなくて、足を止めた。パンプスを脱ぎ捨て、膝に両手を置いて上半身を支えて肩で大きく息をする。

 昔からの商店街があるところで、店はすべて閉まっていた。人通りはない。

 うまく巻けたみたいだった。

 顔を見合わせ、どちらからともなく、つい、笑い出してしまった。

「助けてくれてありがとう」

 ひとしきり笑った後で言うと、

「気にすんなよ。とにかく、逃げられてよかったな」

 なんて、笑顔でさらっと返された。こんなことされたら、いやでもときめきそうになる。

 脱ぎ捨てたパンプスを見て、

「よくこんなのはいて、これだけの距離走ったな。感心するよ」

「これは飲み会用。これだったら結構速く走れる」

「ある意味、すげえな」

 足をパンプスに突っ込んだら、微妙な感じのため息をつかれた。

 引かれた。最悪だ。

 後悔を引きずりながら、駅に向かって歩き出した。

 一条君は、とてもいい人だ。半年前にも一度、わたしを助けようとしてくれた。新宿の本屋さんだった。そのときは自分でどうにか修羅場を切り抜けたけど……そのときからずっと、一条君のことが気になっている。

 仕事も普通にできるし、社内でも評判がいい。気さくで、気遣いができて、話してて楽しい。本を読む姿がきれい。正義感があるけどさりげなく、物怖じしない。裏表がなくて誰にでも平等で、いつも穏やかで機嫌がよくて……。

「けど、なんであんなの相手にするんだよ」

 ……なぜか今は怒っている。

「不愛想にしてたら失礼じゃん」

 気がついたら口をとがらせていた。

「今日、何気に気合入ってるみたいだし」

「ねえ。髪は後ろで一つに束ねてるのよ。黒のパンツスーツに白いTシャツ、黒縁の伊達メガネのどこに気合感じるわけ?」

 ちらっとわたしの全身を見てから、

「髪型と、メガネ」

 やっぱりそこか! 

 こんな昭和のサラリーマン風のメガネでもダメとなると、おしゃれの選択肢がない。

「なにかあってからじゃ、遅いだろ?」

 心配そうに目をのぞきこんできた。不覚にも、きゅん、とした。

 だからさ。こういう、期待してしまうようなことしないでほしい。

 一条君は知らないかもしれないけれど、わたしにとって、ああいうのは日常茶飯事。

 夜中に、「はあ、はあ」と言いながら電話をかけてきて、「パンティ何色?」と聞いてくる人、「一度でいいから、そのおっぱいに顔をうずめさせて」と、タックルしてくる人、「俺を男にしてくださいッ!」と、渋谷の交差点で土下座する人。

 そして、わたしはそれを毎回、うまくかわしてきた。……つもりだ。

「勘違いさせるようなこと、しないほうがいいんじゃないか?」

 桃花だったら絶対言わないけど、それ以外の全人類が言いそうなことを言うので、幻滅しそうになった。返事をしないのをどう思ったのか、

「みんなとデートしてる、って」

 ほんと、わかってない。一体、わたしをいくつだと思ってるの?

 誘ってくる男を全員切り捨ててたら勝率はゼロ。触ろうとしたりキスを迫ったり、ホテルに連れ込もうとするのが、八割。親しい男友達が一割。友達はこれ以上どうにもならないけど、残りの一割に本気でわたしを好きだという王子様がいるかもしれないのに。いきなり結婚までは望まないから、せめて恋愛ぐらいは楽しんでみたい。

 現に、一条君みたいな紳士的な人だっているわけだし。

「みんな、ってことはないよ」

 声が自然と小さくなる。助けてもらったのは感謝する。でも、彼氏でもない人にこういうことを言われるのは結構ツラい。

「そもそもデート、っていうか、一緒にご飯食べに行くだけ、とか、お茶するだけ、とか、映画を見るだけ、とか」

「それを世の中の人はデートって言うんだよ」

「でもさ……全員が悪い人、ってわけでもないから」

 すると一条君は立ち止まり、まっすぐわたしを見た。

「じゃあさ、今度、俺と食事しない? ……って聞いたら、どうする?」

 えっ、と、思った。

「いいよ」

 間髪入れずに返事をしたら、ぎょっとしたように見てくる。

「いつもそんな簡単にオーケーするのか?」

 じゃあ、どうしろ、っていうの?

 本当にうれしくて、つい、返事しちゃっただけなのに。うっかり喜んでしまった分、反動が大きい。

「断ってほしいなら、聞かないで」

「……そういうわけじゃないけど」

 むすっとして歩き出す。

 じわじわと落ちこみ始める。

 みんな、本当にわたしを勘違いしている。

 誘われて食事に行っても、指一本触らせない。どんなに暑くても着ていくのはビジネスライクのパンツスーツ。必ず割り勘。プレゼントはもらわない。お酒は飲まないし、できるだけトイレにも行かない。夜遅くまで残らないし、タクシーで送ってもらったりもしない。カバンの中には防犯ブザーと唐辛子スプレー。

 わたしさえしっかりしていれば、派手な見た目の中身をちゃんとわかってくれる人だって現れるはず……そうやって無理くり自分を納得させてきた。今までもそうだったし、これからもそう。こういう女がまっすぐに生きていきたいなら強いだけじゃだめだ。柔軟さがなければ。

 わかってるんだけど。

 怒ったみたいに歩く一条君の横顔を見た。

 最近、それもちょっと疲れた。

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