第9話:最強の非戦闘
ハルヴァ辺境区の地平線が、どす黒い魔雲に覆い尽くされていた。
「来たか……」
カトレイアが城壁の上で剣の柄を握りしめる。その視線の先、数千、数万という魔王軍の軍勢が、地響きを立てて押し寄せていた。空を埋め尽くす翼竜、地を這う重装のオーガ。そして中央には、魔王軍第四軍団長、爆炎の魔将アグニが、巨大な戦車の上で傲慢に笑っている。
「愚かな人間どもめ。不毛の地に楽園を築いたと聞いたが、そこがお前たちの墓場となるのだ!」
アグニが右手を掲げると、魔軍が放つ殺気が物理的な圧力となって、開拓地の城門を叩いた。 だが、その城門の前に立つアルスは、戦う姿勢すら見せていなかった。彼の片手には、カトレイアが丹精込めて淹れたお茶が入った水筒があり、もう片方の手には、魔法の刻印が刻まれた小さな掌サイズの水晶板(コントロール・パネル)が握られている。
「アルス様、敵は本気ですわ。あれは禁呪級の広域殲滅魔法――『獄炎の審判』の予兆です」
隣に立つ聖女リセリアが、冷静に、けれど少しだけ心配そうに告げる。 アグニの頭上に、巨大な太陽のような火球が形成され始めた。大気が悲鳴を上げ、数キロ先にあるアルスたちの街まで、肌を焼くような熱風が押し寄せてくる。
「大丈夫だよ、リセリア様。ちょうどいい具合に『燃料』が向こうから歩いてきてくれた」
アルスはのんびりとした口調で言い、水晶板の表面を「ポチッ」と軽くタップした。
「――領地防衛システム、モード『収穫(ハーベスト)』。起動」
その瞬間、街を囲む外壁の質感が変わった。 ドランたち一流の石工が積み上げ、アルスが『魔力吸収』の特性を極限まで付与した特殊タイル。それが、まるで深海のような深い藍色に明滅し始める。
「焼き尽くせ! すべてを灰にせよ!」
魔将アグニの咆哮とともに、巨大な火球が街へと放たれた。 空が真っ赤に染まり、世界が蒸発するかのような猛烈な光。カトレイアでさえ思わず身構えるほどの破壊の奔流が、開拓地の結界に直撃した――はずだった。
「……な、何だ!? 何が起きている!」
アグニの驚愕の声が響く。 火球は街を破壊するどころか、結界に触れた瞬間に「シュン……」という奇妙な音を立てて吸い込まれていったのだ。炎の渦はタイルの表面を流れる液体のように変化し、そのまま地下へと引きずり込まれていく。
爆風も、衝撃も、熱波もない。 あるのは、ただ静かに、巨大なエネルギーが「回収」されていく光景だけだった。
「あ、今の火球、結構な魔力量でしたね。リセリア様、見てください。蓄電槽(魔力タンク)が一気に満タンになりましたよ」
アルスが手元の水晶板を見せて微笑む。 すると同時に、まだ夕暮れ時だというのに、街中の街灯が一斉に、柔らかな、けれど非常に明るい光を放ち始めた。
「まあ、本当。とても綺麗な光ですわね、アルス様」
「ええ。これで今夜の街の街灯と、工場の動力源、それからリセリア様の部屋の床暖房も一晩中使い放題です。あ、これでもう一晩中明るいですね。防犯的にも助かります」
二人ののんびりとした会話が、風に乗って敵陣にまで届く。 魔将アグニは、あまりの屈辱と理解不能な事態に、血管がちぎれんばかりに顔を真っ赤にした。
「ふ、ふざけるな! 我が究極の魔法を、照明の油代わりに使ったというのか!? 全軍突撃! その壁を物理的に叩き壊せ!」
数万の魔軍が怒号を上げて突進する。 だが、アルスはもう一度、画面をスクロールした。
「物理的な接触ですね。では――『摩擦係数・零(ゼロ)』、適用」
街の手前数千メートルにわたって敷き詰められていた平原が、瞬時に「氷以上の滑らかさ」へと最適化された。 突撃してきたオーガたちが、一歩踏み出した瞬間にバナナの皮でも踏んだかのように無様に転倒し、慣性に従ってそのまま面白いように後方へと滑っていく。重装の騎兵は馬ごと転がり、互いに激突し、魔王軍は戦う前に巨大な「玉突き事故」の現場と化した。
「……アルス殿、これは。もはや戦闘ではないな」
剣を抜く必要すらなくなったカトレイアが、呆れたように呟く。
「カトレイア様、戦うのはエネルギーの無駄ですよ。彼らが動けば動くほど、その運動エネルギーも床のタイルから吸収して、冬のための備蓄回しにされますから」
「き、貴様ぁぁぁ! 俺を、魔王軍を何だと思っている!」
転倒した戦車の上でアグニが叫ぶが、その声も虚しい。 アルスの領地において、魔王軍の脅威は「災害」ですらなかった。それは、向こうから勝手にやってくる「再生可能エネルギー」であり、街を豊かにするための「資源」に過ぎなかったのだ。
「あ、もう飽きちゃいましたか? じゃあ、最後にお帰り願おうかな」
アルスが最後のボタンを押す。 『構造的排除(エジェクト)』。 タイルに溜まった膨大な余剰魔力が、音もなく指向性を持って放射された。 それは攻撃ですらない。「ここにはお前の居場所はない」という、物理法則レベルの拒絶。
「う、うわああああああああっ!」
アグニと数万の軍勢は、まるで見えない巨大な掃除機に吸い込まれ、掃き出されるように、一瞬で地平線の彼方まで吹き飛ばされていった。
静寂が戻った辺境区。 夕闇が深まる中、街は先ほどの魔将の魔法をエネルギーにした、温かな光に包まれている。
「いい汗……は、かいてませんね。リセリア様、戻って夕食にしましょう。今日はドランさんたちが美味しいお肉を持ってきてくれたんです」
「はい、アルス様。楽しみにしておりますわ」
アルスは一度も剣を抜かず、呪文を唱えることさえなかった。 ただ「管理」し、「最適化」した。 それだけで、世界を震撼させる魔王軍を、一夜の明かりに変えてしまったのだ。
一方その頃、王都。 一人残されたゼノンは、錆びた剣を抱え、闇に怯えていた。 彼が追い出した「器用貧乏」が、今や神の領域で世界を回していることなど、想像することもできないまま。
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