第10話:間に合っています
ハルヴァ辺境区の正門は、かつての不毛の地とは思えないほど、活気と美しさに満ちていた。 白亜の城壁には魔力を安定させるための青い蔦が這い、通りかかる領民たちの顔には、飢えや不安の色など微塵もない。
その輝かしい門の前に、およそこの場所には不釣り合いな「汚物」が転がっていた。
「……あ、あ、アルス……そこにいるんだろ……アルス……ッ!」
泥にまみれ、異臭を放つ男が、門の格子に縋り付いて叫んでいた。 かつて王都中の憧れを一身に集めた勇者ゼノンの面影は、もうどこにもない。黄金の髪は薄汚れ、自慢だった絹の服はボロ布のように裂けている。何より、腰に下げた聖剣『アスカロン』は、鞘さえも割れ、刀身は赤錆に侵されて、ただのひん曲がった鉄屑と化していた。
「開けてくれ……頼む……! 俺が悪かった! お前をクビにしたのは間違いだったんだ! 頼むから、また俺の剣を研いでくれ! 俺を勇者に戻してくれッ!」
ゼノンが門を叩く拳からは血が滲んでいる。だが、その絶叫を遮るように、重厚な金属音が響き、門がゆっくりと左右に開かれた。
現れたのは、三人の影。 中央に立つのは、以前と変わらぬ穏やかな、けれどどこか超然とした空気を纏うアルス。 その右隣には、銀髪を神聖な陽光に輝かせ、冷徹なまでの美しさを湛えた聖女リセリア。 左隣には、白銀の甲冑に身を包み、鋭い眼光でゼノンを射抜く女騎士カトレイア。
ゼノンは眩しさに目を細めながら、這いつくばったままアルスの足元へ擦り寄った。
「アルス! あぁ、アルス! 会いたかったぞ! ミラもガストンも、みんなお前を求めて勝手に出て行っちまったんだ! でも俺は違う、俺はお前を迎えに来たんだ!」
アルスは無言で、足元に縋り付くゼノンを見下ろした。 その瞳には、かつての怒りも、悲しみもない。 ただ、道端に落ちている壊れた石ころを見るような、徹底した「無関心」だけがあった。
「ゼノン。……君、剣がひどいことになっているね」
アルスが静かにつぶやいた。 ゼノンは顔を輝かせ、錆びた聖剣を差し出す。
「そうなんだ! あいつら、どこの鍛冶屋も『直せない』って言うんだ! でもお前なら、お前の『最適化』なら一瞬だろ!? さあ、今すぐ直せ! 直して、また俺に最高のバフをかけろ!」
「……もう、手遅れだよ」
アルスの声は、どこまでも平坦だった。
「金属疲労だけじゃない。君自身の慢心と、道具への無理解が、この剣の『核』を腐らせてしまった。僕が手を出したところで、これはもう、ただのゴミだ。……君の人生と同じようにね」
「な……っ!? なんだと、俺に向かって……!」
ゼノンが逆上して立ち上がろうとした瞬間、カトレイアが音もなく一歩前に出た。 抜剣さえしない。ただ彼女から放たれた凄まじい「威圧」だけで、ゼノンは心臓を掴まれたように硬直した。
「控えよ、無礼者。貴様が言葉を交わしているお方は、この地の領主であり、我ら騎士団が守護を誓った至高の技術者だ。かつての情けに縋り、汚れた手で触れることさえ許されん」
「カトレイア……お前まで……! アルス、頼むよ、この通りだ! 俺を助けてくれ! お前がいないと、俺はもう魔物一匹倒せないんだ……っ! 人生がめちゃくちゃなんだよ!」
地べたを這い、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにする勇者。 その醜態を見つめ、リセリアが静かに口を開いた。慈悲深い聖女の声は、今や冷酷な宣告として響く。
「ゼノン様。貴方はアルス様を『器用貧乏』と呼び、使い捨ての道具のように扱いました。ですが、彼が整えていたのは貴方の剣だけではありません。貴方の『運命』そのものを、彼は裏側で支えていたのです」
彼女はアルスの腕にそっと自分の手を重ね、誇らしげに微笑んだ。
「今のアルス様は、この広大な領地のすべての生命を、すべての産業を、文字通り『最適化』し、守っておられます。貴方一人の自尊心を満たすために割ける時間は、彼には一秒たりとも残っておりませんわ」
アルスはリセリアの手を優しく握り返すと、ゼノンの目をまっすぐに見据えた。
「ゼノン。君は僕に『戻れ』と言ったね。でも、今の僕の仕事は、この領地に集まってくれた職人たちや、僕を信じてくれる領民たちを、豊かにすることなんだ。君を勇者に仕立て上げる『雑用』より、ずっとやりがいがあるんだよ」
「そんな……そんな殺生な……!」
「冒険者のサポートは、もう間に合っています」
アルスは淡々と、けれど決定的な拒絶を口にした。
「僕の隣には、僕の技術を理解してくれる仲間がいる。僕の手を必要としてくれる、新しい家族がいる。……君の席は、もうこの世界のどこにもないんだ」
「あ……あぁ……あああああッ!」
ゼノンが絶叫を上げる中、アルスは背を向けた。 リセリアとカトレイアも、彼に従うように歩き出す。
「衛兵。この者を門の外へ。……二度と、私の視界に入れないでくれ」
「はっ! 了解いたしました!」
控えていた屈強な衛兵たちが、抵抗する力も残っていないゼノンの両脇を掴んだ。 「放せ! 俺は勇者だ! アルス! 戻ってくれぇぇぇ!」という情けない叫び声は、重厚な正門が閉まる音によって無残に断ち切られた。
門の向こう側で、ゼノンは泥の中に突っ伏した。 もう、誰も彼を「勇者」とは呼ばない。錆びた剣さえ、彼の手からこぼれ落ち、側溝の泥に沈んでいく。
一方、門のこちら側――。 アルスの前には、光り輝く街並みが広がっていた。 噴水の水は魔力で浄化され、人々の笑い声が風に乗って聞こえてくる。
「アルス様、今日の夕食はドランさんたちが釣ってきた大魚を使ったフルコースだそうですよ」
「それは楽しみだね。カトレイア様も、今日は修行を休んでゆっくり食べてください」
「ふむ……アルス殿がそう言うなら、今夜は剣を置こう」
三人の笑い声が、平和な夕暮れに溶けていく。 「器用貧乏」と蔑まれた男が築いた、世界で最も「最適化」された楽園。 その伝説は、まだ始まったばかりだった。
【完】
『万能すぎて「器用貧乏」と捨てられた荷物持ち、実は全ての伝説級スキルの起点だった 〜今さら戻ってくれと言われても、隣には聖女と女騎士がいるので間に合っています〜』 春秋花壇 @mai5000jp
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