第8話:泥沼の勇者パーティー
王都の安宿。かつて最高級宿のスイートルームを貸し切っていた『雷光の牙』が今身を置いているのは、カビ臭い湿気と野良犬の鳴き声が染み付いた、場末の木賃宿だった。
「――ねえ、もう限界なんだけど」
沈黙を破ったのは、魔術師ミラだった。 彼女の声には、かつての凛とした響きはない。掠れ、苛立ちに震えている。彼女は手鏡を叩きつけるようにテーブルに置いた。鏡に映るのは、不摂生とストレス、そして低品質な市販ポーションの副作用で、ひどく荒れ果てた自慢の肌だった。
「見てよ、この肌! アルスがいた時は、彼が淹れるハーブティー一杯で翌朝にはツルツルだったのに! 今のポーションときたら、飲むたびに内臓が焼けるみたいで、魔力回路もガタガタよ!」
「うるさいぞ、ミラ。今は我慢の時だと言っただろう」
リーダーのゼノンが、力なく応える。彼の目の前にあるのは、かつて神々しい光を放っていた聖剣『アスカロン』だ。だが今のそれは、無数の細かい刃こぼれと、拭いても落ちない血汚れに塗れ、まるで打ち捨てられた古鉄のような無惨な姿を晒している。
「我慢、我慢って……もう一ヶ月よ!? あんたがアルスを追い出してから、まともな依頼一つ達成できてないじゃない! 昨日のゴブリン退治だってそう。私の魔法は暴発するし、ガストンの盾は……」
ミラの視線が、部屋の隅で丸まっている大男、ガストンへ向いた。 彼の左腕には、不格好な添え木が当てられている。二十五層で砕け散った大盾の代わりに新調した市販の盾も、先日の戦闘でいとも簡単にひしゃげ、彼の腕を再び破壊したのだ。
「……アルスなら、こんなことにはならなかった」
ガストンが、ひび割れた声で呟いた。
「あいつが夜中にカチャカチャと道具をいじっている音が、昔はうるさいと思ってた。だが……あの音が消えてから、俺の体は一度も休まった気がしねぇ。あいつがいた頃の盾は、まるで体の一部みたいに軽くて、どんな衝撃も吸い込んでくれたんだ」
「ガストン、貴様まで……! あんな雑用係、代わりはいくらでもいると言ったはずだ!」
ゼノンが激昂して立ち上がった拍子に、テーブルのエールがこぼれた。酸っぱい、安酒の匂いが鼻を突く。
「代わり!? どこにいるのよそんな人! ギルドで雇った付与術師も、王都一番の調合師も、みんな『アルス様の足元にも及ばない』って匙を投げたじゃない! あいつがやってたのは雑用じゃない……私たちが『呼吸するように勝てる環境』を作ってたのよ!」
ミラが立ち上がり、荷物をまとめ始めた。
「私、行くわ。辺境のアルスのところへ。そこで彼に謝って、もう一度ポーションを作ってもらう。……あんたと一緒にいたら、魔法使いとしてだけじゃなく、女としても終わるわ」
「待て、ミラ! 俺を置いていくのか!? 俺は勇者だぞ!」
「勇者? アルスの付与(バフ)がなきゃ、ただのプライドが高いだけの剣士じゃない。……さよなら、ゼノン」
ミラは振り返ることもなく、部屋を飛び出していった。 重い沈黙が、さらに濃くなって部屋を支配する。
「……ガストン、お前は……お前は残るよな? あんな女、放っておけ」
ゼノンが縋るような目を向けたが、ガストンはゆっくりと、痛む腕を引きずりながら立ち上がった。
「悪いな、ゼノン。……俺は、戦士だ。死にたくねぇ。アルスの領地に行けば、ドランの親父さんが打った、アルス調整済みの『折れない盾』があるって噂だ」
「ガストン……お前まで……!」
「正直に言えよ、ゼノン。お前が一番わかってるはずだ。……その聖剣がもう、ただの鉄屑だってことをな」
ガストンは情けなそうに吐き捨てると、背を向けて歩き出した。 バタン、と景気の悪い音を立てて扉が閉まる。
たった一人。 西日の差し込む薄汚れた部屋に、ゼノンだけが取り残された。
「……何なんだよ。どいつもこいつも」
ゼノンは震える手で聖剣を握った。重い。信じられないほど重い。 かつてはこの剣を振るえば、空さえも裂ける気がした。だが今は、持ち上げることすら苦痛だ。
窓の外からは、辺境へ向かう馬車の轍の音が聞こえてくる。 そこには、自分を見捨てた仲間たちが、そして自分を見捨てた「幸運」が向かっている。
「俺が間違っているはずがない……。俺は選ばれし勇者だ……アルスが、あいつが全部悪いんだ。あいつが、俺に黙って勝手に手を貸していたから、俺の感覚が狂ったんだ……!」
暗い部屋の中で、ゼノンは自分でも気づかないうちに涙を流していた。 しかしそれは、反省の涙ではない。 自分を輝かせてくれていた「舞台装置」を失ったことへの、醜い自己憐憫の涙だった。
彼はまだ、認められずにいた。 自分の輝きは、すべてアルスという鏡が反射していただけのものだったということに。 そしてその鏡を、自らの手で粉々に砕いてしまったという、取り返しのつかない事実に。
「……アルス、戻ってこいよ……。命じれば、戻ってくるんだろ……? 俺は、勇者なんだから……」
その呟きに応える者は、もう誰もいなかった。 部屋の隅で、手入れを拒絶された聖剣が、ただ虚しく錆び始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます