第6話:女騎士、価値を知る

迷宮を後にしたアルスとリセリアは、王都の喧騒から少し離れた静かな一軒家を拠点にしていた。 夕暮れ時、台所からは小気味よい音が響いている。 トントントン、と一定の律動で刻まれる包丁の音。


「――やはり、少し重心が後ろに寄っていたな」


アルスは手にした何の変哲もない鋼の包丁を、夕闇に翳した。 それは宿の厨房で「使い古して捨てられる寸前」だった代物だ。刃は欠け、赤錆が浮いていたはずの鉄の塊が、今はアルスの指先で銀色の流星のように輝いている。


『多層鑑定』と『最適化』。 アルスが行ったのは、単なる研ぎではない。金属の分子結合に干渉し、食材の細胞を「潰さず、断つ」ためだけに特化させた、極小の鋸刃状エッジの形成。それはもはや調理器具という概念を超え、精密機械の域に達していた。


その時、玄関の扉が静かに、だが重厚な威圧感を持って開かれた。


「失礼する。聖女リセリア殿にお取次ぎを願いたい――」


現れたのは、白銀の甲冑を纏った凛冽な美女だった。 カトレイア。王都近衛騎士団の団長であり、この国で唯一『剣聖』の称号を許された、武の頂点に立つ女騎士だ。彼女は迷宮での異変――聖女の呪い解除と、勇者パーティーの壊滅的敗北――の調査のために派遣されてきたのだ。


「あ、カトレイア様。お久しぶりです」


リセリアがにこやかに迎えるが、カトレイアの瞳は鋭く、部屋の隅々にまで警戒を走らせている。彼女の鼻腔を突いたのは、高貴な香香ではなく、瑞々しい「野菜」の香りだった。


「リセリア殿、調査の前に一つ聞きたい。この家には他に誰が……いや、そこで料理をしている男は誰だ?」


「私の命の恩人、アルス様です。今は夕食の準備をしてくださっていますの」


カトレイアは無言で台所へと歩を進めた。 彼女の直感が、そこにある「異常」を捉えていた。アルスが手にしているのは、どこにでもある家庭用の包丁。だが、その一振りごとに放たれる「気」が、あまりにも澄み渡っている。


アルスがまな板の上のトマトを、流れるような動作で横に引いた。


「…………なっ!?」


カトレイアの喉が鳴った。 彼女の目は、並の剣士が一生かけても到達できない「超感覚」を有している。 その目が捉えたのは、トマトが切断された瞬間、一滴の果汁も溢れず、表面の薄皮が抵抗なく両断される光景だった。


「……待て。そのトマトを、見せてくれ」


「え? ああ、構いませんけど。まだ調理の途中ですよ」


アルスが差し出した皿の上、スライスされたトマトの断面を見て、カトレイアは戦慄した。 断面は鏡のように滑らかで、細胞の一つひとつが潰されることなく、瑞々しさを保ったまま整列している。それは、どれほど鋭い名剣を振るっても不可能な、「完全な切断」だった。


「信じられん……。細胞を無視して断つのではない。細胞の隙間を、魔力的な最適解を持って通り抜けている……。これは、剣術の極致……『無風の断罪』と等しい精度だ」


カトレイアの指が、震えながら自分の腰の長剣に触れた。 彼女が一生をかけて追い求めている「究極の一撃」。それを、この青年は台所で野菜を切りながら、無造作に、呼吸するように実現している。


「貴殿……。今の研ぎ、どのような秘術を使った? 名のある刀匠か、それとも隠れ住む剣神の弟子か?」


「いえ、ただの『荷物持ち』ですよ。包丁の切れ味が悪いと、素材の味が落ちるでしょう? だから、抵抗がゼロになるように調整(メンテナンス)しただけです」


「調整だと……? これを、たかが道具のメンテナンスだと言うのか!」


カトレイアは激昂したのではない。あまりの衝撃に、己の武道家としての魂が揺さぶられていたのだ。 彼女はアルスの目を見た。そこには野心も、驕りも、虚栄心もない。ただ「あるべきものを、あるべき姿へ」という、純粋すぎて狂気すら感じるほどの「誠実さ」だけがあった。


(……ようやく理解した。勇者ゼノンが何を失ったのかを)


カトレイアは、冷や汗が背中を流れるのを感じた。 ゼノンが誇っていたあの聖剣。あれはゼノンの力ではなかったのだ。アルスというこの怪物が、剣の理を「最適化」し、振るえば勝てるように、壊れれば治るように、世界そのものを書き換えていたに過ぎない。


カトレイアは深く、深く息を吐き出すと、その場で膝をつき、騎士の礼をとった。


「アルス殿。貴殿の技術、そしてその『眼』……私が生涯をかけて追う背中、その正体がここにあると確信した」


「え、ちょっ……カトレイア様? 騎士団長が何をしてるんですか」


「私は今日、この瞬間より、近衛騎士団の役職を休職する。そして一介の用心棒として、貴殿の旅に同行することを申し出る」


「はぁ!? ダメですよ、うちはもうリセリア様もいるし、そんなに守ってもらう必要は……」


「守るのではない! 見届けたいのだ!」


カトレイアは顔を上げ、激しい情熱を湛えた瞳でアルスを射抜いた。


「貴殿が触れるものが、世界をどう変えていくのか。この包丁の断面のように、澱みなく、美しく書き換えられていく未来を、私はこの目で見たい。断られるというなら、この家の前で果てるまで立ち尽くすのみだ」


「……うわぁ、リセリア様と同じタイプだ、この人」


アルスは困ったように頭を掻いた。 隣でリセリアが「あら、強力なライバルが現れましたわね」と、楽しそうに(だが目は笑わずに)微笑んでいる。


「……わかりました。でも、うちは食費とか生活費とか、全部自分で稼いでもらいますよ?」


「望むところだ! 私の剣を、貴殿がどう『最適化』してくれるのか……考えただけで武者震いが止まらん」


カトレイアは歓喜に震えながら、再び立ち上がった。 その立ち姿は、今までになく軽やかだった。


王都最強の剣士が、ただ一人の「荷物持ち」に心酔した瞬間。 アルスの旅路は、教国の聖女に加え、王国最強の剣聖までもを従えるという、もはや国家が転覆しかねない規模の「規格外」へと突入していく。


そしてその頃。 命からがら迷宮を脱出したゼノンたちは、壊れた装備とボロボロの体を引きずり、アルスの「包丁」の足元にも及ばない鈍ら剣を抱えて、絶望の泥沼を這いずっていた。


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