第5話:盾の崩壊と再会

『嘆きの迷宮』二十五層、ボスエリア。 立ち込める硫黄の臭気と、命を削り取るような咆哮が、閉ざされた空間を支配していた。


「ガストン、耐えろ! そこを動くな!」


勇者ゼノンの悲鳴に近い怒号が響く。だが、最前線に立つ重戦士ガストンの膝は、すでに限界を超えて震えていた。 対峙するのは、鋼鉄の鱗を持つ巨大な魔獣『アイアン・ゴーレム』。その丸太のような拳が振り下ろされるたび、ガストンの構える黒金の大盾が、聞いたこともないような甲高い悲鳴を上げる。


「無茶言うな! この盾、さっきから感覚がおかしいんだ!」


(重い、重すぎる……!) 昨日までなら、衝撃は盾の表面を受け流すように消えていた。だが今は、打ち付けられる震動がダイレクトに腕の骨を砕かんばかりに伝わってくる。アルスが毎晩、ミリ単位で調整していた「衝撃分散」の付与が消えた盾は、もはやただの「重い鉄板」でしかなかった。


「ミラ、援護はどうした!」


「やってるわよ! でも魔力が……っ、ポーションを飲んでも全然回復しないのよ!」


後方でミラが顔を真っ青にして叫ぶ。アルスの特製薬(カスタム・ポーション)を失い、市販の高級品で誤魔化してきた弊害が、この土壇場で牙を剥いた。胃が焼けるように熱いだけで、枯渇した魔力の泉は一滴も満たされない。


そして、運命の瞬間が訪れた。


ゴーレムが両拳を高く振り上げ、渾身の一撃を叩きつける。 アルスが去り際に指摘した、盾の右下の「歪み」。そこを起点に、目に見えないほど細かった亀裂が、雷光のような速さで盾全体を走った。


「――あ」


乾いた音が響いた。 最強を誇った黒金の盾が、まるで薄い硝子細工のように、真っ二つに割れ砕けた。


「ぐ、ああああああっ!」


盾を失ったガストンの左腕を、ゴーレムの拳が容赦なく粉砕する。吹き飛ばされた巨体が壁面に激突し、血反吐を吐いて沈んだ。


「ガ、ガストン!? 嘘だろ、あの盾が壊れるなんて……!」


ゼノンが絶望に目を見開く。聖剣を構えるその手も、手入れを怠った報いで刃がなまり、ゴーレムの鱗に弾かれて火花を散らすだけだ。 逃げ場のない行き止まり。死の影が、ゆっくりと彼らを飲み込もうとした、その時。


「――おや、随分と賑やかだね」


場違いなほどに穏やかで、聞き慣れた声が、エリアの入り口から響いた。 土煙の向こうから現れたのは、質素な旅装に身を包んだアルスだった。その背後には、清廉な光を纏った銀髪の少女――聖女リセリアが、守られるように寄り添っている。


「ア、アルス……!? アルスじゃないか!」


ゼノンの顔に、地獄で仏を見たような卑屈な喜びが浮かんだ。


「助かった……! おい、早くしろ! ガストンに回復を、俺の剣に付与(エンチャント)をかけろ! 盾が壊れて散々なんだよ、早く直せ!」


身勝手な命令。昨日、自分をゴミのように捨てたことなどなかったかのような、傲慢な救いの要請。 だが、アルスは足を止めることさえしなかった。彼はゼノンの横を通り過ぎ、壁際に転がったゴーレムの剥離した鱗を、鑑定しながらひょいと拾い上げた。


「……あぁ、これだ。リセリア様、この鱗があれば、先日お話しした新しい魔力触媒が作れそうです」


「まあ、素敵ですね、アルス様。こんなに質の良いものが手に入るなんて、幸運ですわ」


リセリアがアルスの腕にそっと手を添え、花が綻ぶような笑みを浮かべる。その光景は、血生臭い戦場の中でそこだけが別世界の庭園であるかのように美しかった。


「おい、無視するな! 俺だぞ、ゼノンだ! 勇者の俺が命令して……」


ゼノンがリセリアに縋り付こうとした瞬間。 リセリアの瞳から慈愛が消え、極北の氷山のような冷徹さが宿った。彼女はアルスの隣から一歩も動かず、汚物を見るような視線をゼノンへ向ける。


「……アルス様。この、騒々しい方はどなたですか?」


「え? ああ、元いたパーティーのリーダーだよ」


「……。存じ上げませんね」


リセリアは、凛とした声で言い放った。


「アルス様は現在、我が教国の『特別賓客』として私に同行してくださっています。名もなき冒険者風情が、気安く彼に触れようなどと……。ましてや、救済を乞うなど、身の程を知りなさい」


「な、なんだと……っ! 俺は、俺たちはSランク目前の『雷光の牙』だぞ!? 聖女なら、俺たちを助ける義務が……」


「義務? 滑稽ですね。聖なる奇跡は、アルス様のように価値ある方のためのもの。彼を『器用貧乏』と蔑み、その真価を理解できずに捨てた愚か者たちに、分け与える光など一筋もありませんわ」


リセリアの放つ魔力の圧に、ゼノンは言葉を失い、その場にへたり込んだ。 アルスは、一度たりともゼノンの目を見なかった。かつての仲間たちが血を流し、絶望に震えている姿を見ても、その心に波風一つ立たない。


「じゃあ、リセリア様。素材も回収できましたし、戻りましょうか。今日は美味しいハーブティーを淹れますよ」


「ええ、楽しみにしておりますわ、アルス様」


二人は談笑しながら、出口へと歩き出す。 背後では、再び立ち上がったゴーレムの重い足音が響き始めていた。


「待て……! 待ってくれアルス! 悪かった、俺が悪かった! 戻ってくれ! 給料は三倍、いや五倍出す! お前がいないとダメなんだ!」


ゼノンの情けない叫びが洞窟に虚しく反響する。 だが、アルスは振り返らない。


彼にとって、ゼノンたちはもう「最適化」の対象ですらない。 ただの、視界の端を通り過ぎる背景の一部に過ぎなかった。


扉が閉まる。 絶望的な咆哮と、金属が砕ける悲鳴が、重い石扉の向こう側に封じ込められた。


アルスの足取りは、どこまでも軽やかだった。 その隣で微笑む聖女の温もりを感じながら、彼はただ、新しく手に入れた素材をどう加工しようかと、未来のことだけを考えていた。


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