第8話
夜。虫やカエルの鳴き声しか聞こえないような時間。
リリーは物音を感じて目を覚ます。あまりに眠く、すぐさま再び眠りに就こうとするが、隣にアメリがいないことに気付き一気に意識が覚醒する。
「アメリ……? アメリ?」
呼びかけても答えはない。代わりに先ほどの物音が一層強くなる。それは濡れて……何かが潰れるような物音だ。何かを引き抜くぶちぶちという音。それは裏庭から聞こえる。
不穏な予感に肌が粟立つ。だがリリーは見に行かなければならなだろう。ここには己の他に助けを求められるような人は存在しないから。
(大丈夫よ、家の中から少し様子を見るだけ。大丈夫、大丈夫……。)
リリーは物音を立てないようにそっとベッドから抜けて部屋を出て、裏庭側の窓からそっと外の様子を伺う。
その瞬間、リリーは声も出せずにその場にへたり込む。裏庭には熊がいた。それも、この家よりも大きいような巨大な熊が。もしあの爪で引っかかれたら、小さく哀れなリリーは即座にバラバラの肉塊になってしまうだろう。だがリリーを怯えさせたのは熊ではなかった。それは既に死んでいた。脳みそが露出し、手足が千切られ、背中からは背骨が飛び出ている凄惨な死体の上には―――アメリがいた。
熊を喰っているのだ。野生動物よりも狂暴で、恐ろしい化け物。異様な輝きを放つ紫の瞳。裸で、ほぼ全身が血まみれだった。アメリが熊の内側に手を突っ込み、内臓を引き抜き、喰う。その度に死んだばかりであろう熊から血が噴き出てアメリに噴きかかるが、アメリは些末なこととばかりに熊を喰らい続ける。そのうち飽きたのか腹が満たされたのか、興味が失せたように巨大な熊を引きずり、裏庭の向こう、森の奥へと消えていった。
リリーは……腰が抜けて、四つ這いのまま部屋に戻る。
逃げなければ。でも、どこに?
ここの家の周りは見渡す限り何もないような場所だ。強いて言うなら家の裏に森があるが、先ほどの光景からしても森は危険が多すぎる。村へ逃げるのも、得策ではないだろう。十数分かかるし、リリーは足が遅い。何より今は遠くへ走れる状態ではない。腰が抜けて、まともに歩くことすらできないのだから。
結局リリーは部屋に戻り、小さなクローゼットに身を潜める。だが狭く暗い、密閉された空間はより恐怖を増幅させた。
(猫みたいだなんてとんでもない! あれは……化け物よ! 私はなんて愚かだったの。化け物に食事を与えて、服を着せて、言葉を教えて……それが何になるって言うのよ。私、殺されてしまうのかしら。死にたくない、死にたくないわ……。)
数分なのか、数時間なのか、どれほどそうしていたのか分からないが、縮こまったリリーの全身が冷たくなってきたころ、静かにドアを開ける物音がする。リリーの心臓は自分でも心音が聞こえるほど大きく跳ね、バクバクと音を立てる。
誰かが部屋の中を歩き回るような足音がして、暫くしてクローゼットの前で止まる。リリーはもう涙を抑えきれなかった。静かにクローゼットの扉が開かれ、そこにいたのはやはり―――アメリだった。
月光が二人を照らし、だが逆光でアメリの表情はよく見えない。アメリのキラキラした瞳だけが鮮明にリリーの目に映る。今にも襲い掛かってきそうな雰囲気はなく、それに血塗れでもない。服も……今はちゃんと着ている。
それでもリリーは体の緊張を解くことは出来なかった。だがその様子を見たアメリがリリーをほとんど引きずるようにしてクローゼットから引っ張り出し、口を開く。
「何に怯えている?」
まさか「貴女です」などと言えるわけがない。
リリーの口は貝のように固く閉ざされ、許しを請うようにアメリの足元に座り込んでいることしかできなかった。傍から見れば、まるでこれから折檻でもされるかのような光景だ。
それに痺れを切らしたのか、アメリはグッとリリーに顔を近づける。そこで初めて表情が見られるようになった。
アメリは……怒ったような、戸惑うような、何とも微妙な表情を浮かべていた。リリーはぼんやりと、この一週間程度で随分人間らしくなったものだ、と思う。
はじめはただ機械的に自分の言葉を真似するだけだったのが、変な一人称を好んで使い、偉そうな言葉遣いになった。ほぼ無表情だったのが、このような表情をするようにもなり、今は自分なりの意思を持っている……ように見える。だが、本当に? ただ模倣しているだけなんじゃないのか? 油断させて、残酷に自分を殺すために、自分に好まれるように動いているだけ。だって、アメリは化け物だから。
仮に本当にアメリが自らの意思で話したり、行動しているとして、先ほどの光景を考えれば、それが良いことなのか悪いことなのか、リリーには判断できなかった。
だがリリーの考えをよそに、アメリはそっとリリーと抱き上げると、ベッドに向かい、降ろして毛布をかける。その仕草があまりに優しくて、その瞬間、リリーの目からは先ほどとは比にならないほど涙が溢れた。
恐ろしいのに、殺されるかもしれないのに、こんなにも離れがたくて、手放しがたいと思ってしまう。愚かで、狂っているし、馬鹿みたいだ。自分はおかしくなってしまったのだ!
あらゆる感情がリリーの身体の中で渦巻いては、暴れ、その衝動のままにリリーは思い切りアメリの手をひっぱり、手の甲に爪を立てる。自分が何をしたいのか、リリーには分からない。ただ衝動があった。
アメリは抵抗もしないが、反応も示さない。いつもの様に、何を考えているか分からない瞳で自分を見つめるだけだ。リリーはアメリのそんな態度にさえ苛立ち、暴れまわり、泣き出したいような気持ちになる。
それはほとんど本能的な行動だった。リリーは起き上がって身を乗り出し、アメリの唇に思い切り噛み付く。アメリから血の味がすることはなかった。血のにおいも。まるで生まれつき清潔な生き物であるかのように。
先ほどまで無反応だったアメリがそこで初めて反応し、体をピクリと動かす。目を合わせると、瞳には奇妙な熱が浮かんでいるように見えた。
「リリー、お前はたまに……ほんとうに我を……言いようのない気分にさせる。」
「お互い様よ。アメリ、貴女のせいで私は……頭がおかしくなってしまったかもしれないのよ。前に私を守ると言ったのが本当なら、嘘じゃないなら……今助けて、今私を守ってちょうだい。」
アメリは凄まじい力でリリーの肩を掴むと、ベッドへ押さえつける。
リリーは誓って誰かと恋愛関係になったことがないため分からないが、この雰囲気は、確実に……。
リリーは先ほどの自分の狂暴な衝動や行動などすっかり忘れて、恐怖と少しの期待を込めた目でアメリを見上げる。
「ああ、我が守ってやるから、リリーはもう寝るといい。」
「え? ……。」
本気で? と思ったが、リリーはアメリが人の言葉や感情を学び始めて少ししか経っていないことを思い出し、静かに目を閉じる。
その日は何故だかがっかりした気持ちのままリリーは眠りに就いたのだった。
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