第28話

しんしんと、雪が降っていた。


窓の外は一面の銀世界。


北の山脈にある辺境伯邸の『北棟』は、分厚い雪の壁と、三重の防音結界によって、世界から切り離されたような静寂に包まれている。


パチパチ……。


暖炉の薪が爆ぜる音だけが、広々としたリビングに響く。


ルシアンは、特等席のロッキングチェアに揺られながら、読みかけの本を膝に置いていた。


(……静かだわ)


目を閉じれば、聞こえるのは自分の呼吸音と、すぐ隣にいる人の気配だけ。


あれから、五年が経った。


アランとミナの「騒音コンビ」が去り、公爵家とのしがらみも整理され、ルシアンとキースは本当の意味での隠遁生活を手に入れた。


「……寒いか」


低く、穏やかな声。


ルシアンが目を開けると、キースが膝掛けを掛け直してくれているところだった。


「いいえ、暖かいです。……貴方が暖炉の火加減を完璧に管理してくれていますから」


「……ならいい」


キースは満足げに頷き、自分の椅子(ルシアンの椅子のすぐ隣、距離にして五十センチ)に戻った。


彼は少し老けたかもしれない。目尻に笑い皺が増えた。


でも、その無口さと、ルシアンを見守る瞳の温かさは、出会った頃と何も変わらない。


「……キースさん」


「……ん」


「アラン殿下から、手紙が来ましたよ。ハンスが届けてくれました」


ルシアンはサイドテーブルの上の封筒を指差した。


泥のような汚れがついた、ボロボロの封筒だ。


「……まだ生きていたのか」


「ええ。なんでも、『ついに新種のジャガイモの開発に成功した! 名前はルシアン・ポテトにする!』だそうです」


「……不愉快だ。焼却処分する」


「中身の種芋だけは回収しましょう。美味しそうですから」


キースは渋々といった様子で封筒を手に取り、中身を確認し始めた。


「……ミナからも追伸がある。『劇団の公演が大盛況です! 観客(魔獣)たちがスタンディングオベーション(威嚇)してくれました!』……だそうだ」


「逞しいですね。……彼らなりに、幸せを見つけたのでしょう」


ルシアンは微笑んだ。


騒がしい彼らも、遠い空の下なら愛おしく思える。


ただし、半径一万キロ以内には近づいてほしくないが。


「……お前は」


キースが不意に尋ねた。


「……幸せか?」


「え?」


「……こんな、何もない雪山で。……来る日も来る日も、俺と顔を突き合わせているだけで」


キースは少し不安そうに、ルシアンの手の甲に触れた。


「……退屈していないか」


ルシアンは、きょとんとした。


そして、堪えきれずに吹き出した。


「ふふ、あははは!」


「……笑うな」


「だって、おかしくて。……五年も一緒にいて、まだそんなことを聞くのですか?」


ルシアンは自分の手を裏返し、彼の手を強く握り返した。


「退屈? まさか。……私は毎日、忙しいのですよ」


「……何もしていないように見えるが」


「心の中が、です。……貴方の淹れてくれたコーヒーの香りに感動し、貴方が選んでくれた本に没頭し、貴方が雪かきをする背中を見て『頼もしいな』と思う。……これだけ充実している日々はありません」


ルシアンは暖炉の火を見つめた。


かつて、彼女は「おひとり様」を愛していた。


誰にも邪魔されず、誰にも気を使わず、一人で完結する世界こそが至高だと思っていた。


でも、今は違う。


「……私は今でも『おひとり様』が好きです。一人の時間は大切です」


「……知っている」


「でも、今の私の『おひとり様』の定義には、貴方が含まれているのです」


「……?」


ルシアンは少し照れくさそうに説明した。


「貴方はもう、他人ではありません。私の一部です。……だから、貴方と二人でいる時間は、私にとって『最高のひとり時間』なのです」


キースが目を見開いた。


そして、耳まで真っ赤にして、顔を背けた。


「……反則だ」


「あら、事実ですもの」


「……そんなことを言われたら、離れられなくなる」


「離れるつもりだったのですか?」


「……一生、へばりついてやる」


「ええ、覚悟しています」


その時。


二階から、トテ、トテ、トテ……と、小さな足音が聞こえてきた。


そして、扉が少しだけ開き、小さな男の子が顔を出した。


黒髪に黒い瞳。キースによく似た、四歳になる息子だ。


彼は無言で部屋に入ってくると、両手に抱えた絵本をキースに差し出した。


「…………」


無言の要求(読んでくれ)。


キースは苦笑して、息子を膝の上に乗せた。


「……またこれか」


息子はコクンと頷く。


彼はルシアンに似て、非常に無口で、そして本が好きだった。


泣き声一つ上げず、ただ静かにページをめくることに喜びを感じる、生粋の『ヴァイオレット家の血』を引いている。


「……よし、読んでやる」


キースが低い声で読み聞かせを始める。


ルシアンは、その光景を愛おしく眺めた。


夫と、息子。


世界で一番静かで、世界で一番愛する二人の男性。


(……騒がしい未来も覚悟していたけれど、案外、遺伝子というのは正直ね)


ルシアンは再び本を開いた。


部屋には、暖炉の音と、キースの静かな声と、息子のページをめくる音だけが響く。


言葉はいらない。


過剰な演出も、派手なイベントもいらない。


ただ、ここに「いる」こと。


互いの体温を感じ、同じ静寂を共有すること。


それこそが、ルシアン・ヴァイオレットがたどり着いた、ハッピーエンドの形だった。


「……ねえ、キース」


「……なんだ」


「……いえ、なんでもないわ」


「……そうか」


ただ名前を呼んでみただけ。


それだけで通じ合う。


ルシアンは満ち足りた気持ちで、窓の外の雪を見上げた。


これからも、色々なことがあるだろう。


もしかしたら、またアランが脱走してきたり、マーリン学長が実験で山を吹き飛ばしたりするかもしれない。


でも、大丈夫。


私の隣には、最強の『防音壁』がいるのだから。


「……愛していますよ、旦那様」


ルシアンは聞こえないほどの小声で呟いた。


キースの耳がピクリと動き、口元が微かに緩んだのを、ルシアンは見逃さなかった。


静かなる幸福は、これからも永遠に続いていく。


雪のように降り積もり、決して溶けることなく。

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婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!? パリパリかぷちーの @cappuccino-pary

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