第27話

「……平和ね」


ルシアンは、テラスで紅茶を飲みながら呟いた。


鳥のさえずりと、風の音。


そして、庭でキースが薪を割る、カーン、カーンという小気味よい音。


(これが、既婚者の余裕というものかしら)


結婚初夜から数日。


二人の生活は、驚くほど変わらなかった。


変わったことと言えば、夜に一つのベッドで寝ることと、キースの過保護レベルが少し上がった(姿が見えないとすぐ探しに来る)ことくらいだ。


「……お茶請けだ」


キースが作業の手を止め、焼きたてのクッキーを持ってきた。


「ありがとうございます、旦那様」


「……その呼び方は、まだ慣れない」


キースは照れくさそうに頬を掻き、ルシアンの隣に座った。


この穏やかな時間が永遠に続けばいい。


そう願った、その時だった。


「ルシアァァァァァァンッ!! 僕のルシアァァァァァァンッ!!」


「おぉぉぉぉねぇぇぇぇさぁぁぁぁまぁぁぁぁーーーッ!!!」


「…………」


「…………」


ルシアンとキースは、同時に紅茶のカップを置いた。


デジャヴだ。


しかも、今回はいつにも増して悲壮感が漂う絶叫だ。


「……来ましたね」


「……迎撃する」


キースが腰のナイフに手をかけようとしたが、ルシアンはそれを制した。


「待って。様子がおかしいわ」


森の入り口から現れたのは、いつもの派手な馬車ではなく、鉄格子が嵌められた護送車のような馬車だった。


そこから転げ落ちるように出てきたのは、手枷をはめられたアランと、それを鎖で繋いでいるミナだった。


「……囚人?」


二人はテラスまで這ってきた。


「ルシアン! 助けてくれ! ドナドナされる! 僕たちはドナドナされるんだ!」


「ドナドナ?」


「売られていくのですわ! 辺境のさらに向こう、魔境の開拓地へ!」


ミナが号泣しながら叫ぶ。


「酷いですのよ、国王陛下ったら! 『お前たちの声量は国家の資源だ。魔獣除けとして有効活用してこい』ですって!」


「……なるほど。陛下、ナイス采配です」


ルシアンは心の中で国王に拍手を送った。


アランが柵にしがみつく。


「嫌だ! 僕は都会っ子なんだ! 虫も怖いし、土も汚い! あんな何もない荒野で、どうやって生きていけばいいんだ!」


「貴方にはミナ様がいるではありませんか」


「それが一番の問題なんだよ!!」


アランが泣き叫ぶ。


「あいつ、向こうに行ったら『二人だけの王国を作りましょう♡』とか言って、一日中デュエットを強要してくる気なんだ! 死ぬ! 過労と騒音で死ぬ!」


「……お似合いだと思いますけれど」


「見捨てないでくれルシアン! 君の静寂が恋しい! 君の冷たい視線が懐かしい! 頼む、僕をここで飼ってくれ! 犬小屋でいいから!」


アランがルシアンのドレスの裾を掴もうとする。


ヒュッ。


銀色の閃光。


キースの投げたフォークが、アランの手の甲ギリギリの地面に突き刺さった。


「ヒィッ!?」


「……俺の妻に、触るな」


キースが仁王立ちで見下ろしている。


「……その汚い手をどけないと、開拓地に行く前に、ここで肥料にするぞ」


「ひ、ひえぇぇ……! 悪魔だ……! やっぱりこいつは魔王だ!」


アランは後ずさり、ミナの後ろに隠れた。


ミナはキースを睨み返した。


「なんですの! アラン様をいじめないでくださいまし! アラン様をいじめていいのは、愛のムチを振るう私だけですわ!」


「……どっちもどっちだな」


キースは呆れて溜息をついた。


そこへ、護送車の御者(王家の騎士)がやってきた。


「こら! 脱走するな! 出発の時間だぞ!」


「嫌だぁぁぁ! 行きたくないぃぃぃ!」


「往生際が悪い! さあ、乗れ!」


騎士たちがアランを引きずっていく。


「ルシアン! ルシアン、最後に慈悲を! せめて別れのキスを!」


「お断りします」


ルシアンは冷たく切り捨てた。


「でも、餞別(せんべつ)くらいは差し上げましょう」


「えっ? 本当かい? 金か? それとも宝石か?」


アランが期待に目を輝かせる。


ルシアンは、これ以上ないほどの満面の笑みを浮かべた。


それは、アランが今まで見たこともないような、女神のように美しく、そして晴れやかな笑顔だった。


「――さようなら、アラン殿下。二度とお会いしませんわ」


「……ッ!」


アランは息を呑んだ。


あまりの美しさに、言葉を失ったのだ。


「あ……ああ……」


「元気でね。遠い遠い空の下で、野垂れ死……いえ、逞しく生きてください」


ルシアンは手を振った。


ヒラヒラと、優雅に。


それは「別れを惜しむ手」ではなく、「厄介払いが完了した喜びの手」だったのだが、アランのフィルターを通すと違って見えたらしい。


「ルシアン……! そうか、君は……笑って送り出してくれるのか! 僕が心配しないように、無理をして……!」


「違います」


「分かったよ! 僕は行く! 君のその笑顔を胸に、荒野を楽園に変えてみせる!」


「勝手にしてください」


「待っていてくれ! いつか立派な男になって、君を迎えに来るからーーッ!!」


「来ないでください! 絶対に来ないでください!」


アランは涙を流しながら護送車に押し込まれた。


「さあ、行きますわよアラン様! 愛の逃避行ですわ!」


ミナも乗り込み、鉄格子の中から手を振る。


「お姉様! 私、向こうで『爆音劇団』を旗揚げしますわ! いつかチケットを送りますね!」


「着払いで送り返します!」


ガラガラガラ……。


護送車が動き出す。


「ルシアァァァン!! 愛してるぞォォォ!!」


「アラン様ぁぁぁ!! デュエットォォォ!!」


二人の絶叫が、森の奥へと遠ざかっていく。


キースの『防音結界』を突き破るほどの声量だったが、それも次第に小さくなり、やがて完全に聞こえなくなった。


シーン……。


「……行ったわね」


ルシアンは肩の荷が下りたように、深く息を吐いた。


「……ああ。二度と戻ってこない場所へな」


キースがルシアンの肩を抱く。


「……最後のアランの言葉、気にするなよ。『迎えに来る』とか」


「気にしていませんよ。あそこは『一度入ったら声が枯れるまで出られない』と言われる難所ですから」


「……詳しいな」


「お父様が嬉しそうに言っていましたから」


ルシアンはクスクスと笑った。


これで、本当に終わりだ。


過去のしがらみも、騒がしい元婚約者も、全て彼方へと消え去った。


「……キースさん」


「……ん」


「静かになりましたね」


「……そうだな」


キースは、空になった紅茶のカップを手に取った。


「……入れ直すか?」


「ええ、お願いします。今度は、とびきり甘いのがいいわ」


「……任せろ」


二人はテラスで微笑み合った。


もう、邪魔するものは誰もいない。


アランとミナの騒音は、これからは彼らの新天地での『開拓の槌音』となるだろう。それはそれで、誰かの役に立つのかもしれない。


ただ、ルシアンの耳にはもう届かない。


それで十分だった。


「さあ、次は私たちの番ですね」


「……番?」


「これからの人生という、長い長い『お茶の時間』の始まりです」


ルシアンの言葉に、キースは嬉しそうに目を細めた。

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