第26話

森の奥にある別荘に、二つの影が舞い降りた。


タンッ。


音もなく着地したのは、純白のタキシードを着たキースと、その腕に抱かれたウェディングドレス姿のルシアンだ。


「……着いたぞ」


「……三半規管が死にました」


ルシアンはキースの腕から滑り落ちると、芝生の上にへたり込んだ。


王都からここまで、ノンストップの高速移動。


景色を楽しむ余裕などなく、ただ風圧と戦うだけの新婚旅行だった。


だが。


シーン……。


耳を澄ませば、そこには完全なる静寂があった。


あの地獄のような歓声も、パレードのラッパも、侍女たちの叫び声も聞こえない。


あるのは、虫の音と、風が木々を揺らす音だけ。


「……帰ってきた」


ルシアンは芝生の冷たさを掌で感じ、深く息を吸い込んだ。


「我が家だわ……。愛しき静寂の我が家……」


「……ああ」


キースもまた、ネクタイを緩めながら、ホッとした表情を見せた。


「……あんな人混み、二度と御免だ」


「同感です。影武者の彼らに、ボーナスを弾んであげてください」


二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。


言葉はいらない。


「ここには私たちしかいない」という安堵感だけで、十分だった。


***


簡単な食事(キースが作り置きしていたサンドイッチ)を済ませ、シャワーを浴びて、夜が更けた頃。


ついに、その時はやってきた。


地下の主寝室。


防音完備、空調完備、そしてキングサイズのベッドが鎮座する、あの部屋だ。


「…………」


「…………」


ルシアンとキースは、ベッドの端と端に座り、無言で壁を見つめていた。


気まずい。


死ぬほど気まずい。


なぜなら、今日から二人は法的に夫婦であり、今は世間一般で言うところの『初夜』だからだ。


(ど、どうすればいいの?)


ルシアンは膝の上で手を握りしめた。


王妃教育の一環で、初夜に関する知識はある。


だが、実践となると話は別だ。


それに、相手はこの『沈黙の要塞』のような男だ。彼が何を考えているのか、全く読めない。


(契約では『同室同ベッド』までは許可したけれど……その先については明記しなかったわ!)


チラリと横を見る。


キースはバスローブ姿で、濡れた髪を拭きながら、じっと一点を見つめている。


その視線の先にあるのは――ルシアンの足元に置かれた『抱き枕(中身は綿)』だ。


「……キースさん」


「……ん」


「抱き枕を睨まないでください。燃えそうです」


「……邪魔だ」


キースが低い声で唸る。


「……こいつがいなければ、もっと近くに行けるのに」


「契約違反です。壁は必要です」


「……チッ」


キースは不満げに舌打ちをしたが、それ以上強引に距離を詰めてくることはなかった。


彼は立ち上がり、部屋の隅にある本棚へ向かった。


そして、分厚い本を一冊抜き取り、ベッドに戻ってきた。


「……寝るぞ」


「え?」


「……明日は早い。パンの仕込みがある」


「あ、はい……」


拍子抜けした。


『影の英雄』は、初夜よりも明日のパンの発酵を優先するらしい。


(……まあ、彼らしいわね)


ルシアンも安堵し、自分のサイドテーブルから読みかけの小説を手に取った。


二人はベッドに入り、それぞれの読書灯をつけた。


間に抱き枕を挟んで、並んで横になる。


カサッ。


カサッ。


ページをめくる音だけが、静かな部屋に響く。


「…………」


ルシアンは活字を目で追っていたが、内容は全く頭に入ってこなかった。


意識の全てが、右側にいる存在に向いている。


彼の体温。


微かな石鹸の香り。


そして、規則正しい呼吸音。


(……不思議)


ルシアンは思った。


以前なら、他人が隣にいるだけでイライラして眠れなかったはずだ。


気配がうるさい、呼吸がうるさい、存在がうるさいと。


でも、今はどうだろう。


彼の立てる音は、まるで波の音のように自然で、心地よいリズムとなってルシアンを包み込んでいる。


(……静かね)


一人でいる時の静寂とは違う。


冷たくて、張り詰めた静寂ではない。


温かくて、柔らかい静寂。


カサッ。


キースがページをめくる。


それに合わせるように、ルシアンもページをめくる。


二人のリズムが、自然とシンクロしていく。


「……ルシアン」


不意に、キースが呼んだ。


「はい」


「……契約の、ハグの時間だ」


「え?」


時計を見ると、針は深夜零時を回ろうとしていた。


「……一日一回、15秒。……まだ消化していない」


「……こんな夜中にですか?」


「……日付が変わる前に、やっておきたい」


キースは本を置き、真剣な眼差しでルシアンを見た。


その目は、獲物を狙う獣ではなく、ご褒美を待つ大型犬のようだった。


ルシアンは小さくため息をつき、本を閉じた。


「……仕方ありませんね。15秒だけですよ」


「……感謝する」


キースは邪魔な抱き枕をポイッと床に放り投げた。


「あ、壁が!」


「……今は緊急時だ」


彼はルシアンの抗議を無視し、長い腕を伸ばして、彼女をそっと引き寄せた。


ふわり。


包み込まれるような感覚。


彼の広い胸板に、ルシアンの顔が埋まる。


トクトク、トクトク。


彼の心音が、直接耳に届く。


少し速い。


「…………」


「…………」


言葉はない。


ただ、体温が伝わってくるだけ。


ルシアンは、強張っていた体の力が抜けていくのを感じた。


鎧のように着込んでいた警戒心も、孤独への執着も、この温かさの前では溶けていくようだった。


(1、2、3……)


心の中で秒数を数える。


でも、10を数えたあたりで、数えるのをやめた。


(……もう少しだけ)


ルシアンはそっと、キースの背中に手を回した。


キースの体が、一瞬ビクリと震え、それからさらに強く、愛おしそうに彼女を抱きしめ返した。


15秒など、とうに過ぎていた。


1分、2分……。


やがて、キースがぽつりと呟いた。


「……悪くないな」


「え?」


「……お前のいる静寂は、悪くない」


彼の言葉に、ルシアンの胸が熱くなった。


それは、彼女が言おうとしていた言葉そのものだったからだ。


「……ええ」


ルシアンは彼の胸の中で、小さく微笑んだ。


「……悪くないわね」


二人は体を離すと、少し照れくさそうに視線を逸らした。


キースは床に落ちた抱き枕を拾い上げ、ポンポンと埃を払ってから、律儀に二人の間に戻した。


「……おやすみ、ルシアン」


「……おやすみなさい、キースさん」


カチッ。


読書灯が消される。


部屋は完全な闇と静寂に包まれた。


だが、ルシアンは知っている。


すぐ隣に、世界で一番頼もしい味方がいることを。


そして、彼の手が、布団の中でこっそりとルシアンの手を探し、小指だけを絡めてきたことを。


(……これなら、眠れそう)


ルシアンは目を閉じた。


波乱万丈の結婚式と、静かすぎる初夜。


それは彼女が夢見た「孤独な隠居生活」とは少し違ったけれど、それよりもずっと温かくて、愛おしい「新しい日常」の始まりだった。


翌朝、キースは約束通り、最高に美味しい焼き立てパンでルシアンを起こしてくれるだろう。


そして二人は、また静かに、幸せな朝食をとるのだ。


……まあ、その数日後に、アランとミナが「開拓送り」にされる前に最後の挨拶に来たり、公爵が孫の顔見たさにアポ無し突撃してきたりするのだが、それはまた別の騒音(ノイズ)である。


今の二人には、この静寂だけで十分だった。

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