第25話

「息が……できない……」


ルシアンは、王城の控え室で、純白のドレスに締め上げられながら呻いた。


「我慢してくださいルシアン様! ウエストをあと二センチ絞ります!」


「内臓が破裂します!」


「破裂してもドレスのシルエットが美しければ問題ありません! さあ、息を吐いて!」


ギュウウウウッ!!


コルセットの紐が引かれる音。


ルシアンの意識が飛びかける。


周囲には十人の侍女。


メイク係、ヘアメイク係、ネイル係、そして「メンタルケア係(励ますだけ)」が、嵐のように動き回っている。


「肌の艶が足りないわ! 聖なるオイルを追加して!」


「髪の盛り上がりが一ミリ低い! 逆毛を立て直して!」


「ルシアン様、笑顔です! 三万人の市民の前で、幸せいっぱいの笑顔を見せるのです!」


「……無理」


ルシアンは鏡の中の自分を見た。


化粧で完璧に作り込まれた顔は美しいが、瞳は死んでいた。


(……これが結婚式? いいえ、これは公開処刑の準備よ)


窓の外からは、パレードの開始を待つ群衆の歓声(という名の騒音)が聞こえてくる。


ワァァァァァァ……!


地鳴りのようなその音を聞いた瞬間、ルシアンの中で何かが決壊した。


(逃げよう)


北の山脈? 静寂の権利?


知ったことか。


このままでは、静寂を手に入れる前に、ストレスで寿命が尽きる。


「……あの、少し気分が」


ルシアンは女優並みの演技力で、ふらりとよろめいた。


「あら大変! お水を!」


「少し風に当たりたいわ……バルコニーへ……」


「はい、すぐに窓を開けます!」


侍女たちが慌てて水を取りに行く隙に、ルシアンは動いた。


彼女は脱ぎ捨ててあったヒールを掴むと、裸足でバルコニーへ飛び出し、そのまま隣の部屋の屋根へと飛び移った。


「え?」


侍女たちの凍りついた顔が見えた。


「さようなら! 探さないでください!」


ルシアンはドレスの裾をたくし上げ、屋根の上を疾走した。


目指すは裏門。そこから森へ帰るのだ。


「待ってぇぇぇ! 花嫁が逃げたぁぁぁ!」


背後で悲鳴が上がるが、ルシアンは止まらない。


(ごめんなさいキース! 私には無理だった! 貴方は一人でパレードに出て、国王と愛を誓って!)


などと無責任なことを考えながら、中庭の木に飛び降り、地面に着地した。


スタッ。


「……ふぅ。意外といけるものね」


火事場の馬鹿力だ。


ルシアンが顔を上げ、出口へと駆け出そうとした――その時。


ドスッ。


目の前に、黒い影が降ってきた。


「……!」


ルシアンは急ブレーキをかけた。


土煙が晴れると、そこに立っていたのは、純白のタキシードに身を包んだキースだった。


いつもの黒装束ではない。


眩しいほどの白。


髪を整え、精悍さを増したその姿は、絵本から飛び出してきた王子様そのものだった。


ただし、その目は獲物を追い詰める肉食獣のそれだった。


「……どこへ行く」


低く、響く声。


ルシアンは一歩後ずさった。


「き、キースさん……。えっと、これは、その……マリッジブルーによる戦略的撤退で……」


「……式まであと三十分だ」


「無理です! あの騒音には耐えられません! 貴方だって嫌でしょう!?」


「……嫌だ」


「なら見逃してください! 私は森へ帰ります!」


ルシアンは横をすり抜けようとした。


だが、キースの手が伸びる。


ガシッ。


腕を掴まれた。


「……捕まった」


ルシアンは絶望した。


この男は『影の英雄』。身体能力で勝てるはずがない。


これで連れ戻され、あの地獄のコルセットに詰め直され、パレードの見世物にされるのだ。


「……離して! 私は飾り物じゃない!」


ルシアンが必死に抵抗すると、キースは意外な行動に出た。


彼はルシアンの手を引くと、近くにあった古びた礼拝堂(現在は倉庫として使われている)へと強引に連れ込んだのだ。


「え? ここ、どこ?」


バタン。


重い木の扉が閉められる。


外の喧騒が、少し遠のいた。


薄暗い礼拝堂の中、埃の舞う光の中で、キースはルシアンの手を離した。


「……ここでいい」


「は?」


キースは懐から、一枚の紙を取り出した。


婚姻届だ。


「……パレードも、披露宴も、スピーチもいらない」


彼は静かに言った。


「……あんな騒がしい場所で、愛を誓えるか」


「キースさん……」


「……俺たちが誓うのは、神でも国王でもない。……『静寂』に対してだ」


キースは祭壇(埃まみれ)の前に立ち、ルシアンを手招きした。


「……来い」


ルシアンはおずおずと近づいた。


キースはポケットから羽ペンを取り出し、婚姻届にサラサラとサインをした。


そして、ペンをルシアンに差し出した。


「……書け。……これで終わりだ」


「……いいのですか? 北の山脈がかかっているのに」


「……山脈の権利書は、昨日のうちに国王の寝室から盗ん……前借りしてきた」


「さらりと犯罪を告白しましたね!?」


「……パレードは、『影武者』に行かせた」


「影武者?」


キースが指を鳴らすと、窓の外を、ルシアンそっくりの仮面をつけた黒装束と、キースそっくりの黒装束が、手を振りながら走っていくのが見えた。


『ワァァァァァ! おめでとうぅぅぅ!』


遠くで歓声が上がる。


「……雑すぎませんか?」


「……遠目ならバレない」


キースはニヤリと笑った。


「……さあ、ルシアン。……俺たちの結婚式だ」


彼は祭壇の前で、片膝をついた。


いつもの無愛想な顔ではない。


真剣で、そして少し照れくさそうな表情で、ルシアンの手を取る。


「……ルシアン・ヴァイオレット」


「……はい」


「……病める時も、健やかなる時も。……うるさい時も、静かなる時も」


キースはルシアンの指先に口づけを落とした。


「……俺の半径一メートル以内で、共に生きてくれるか」


それは、世界で一番静かで、自分勝手で、愛おしいプロポーズだった。


ルシアンの目から、涙がこぼれた。


コルセットの苦しさも、騒音への恐怖も、全て消え去った。


「……はい。……貴方が黙っている限り、お供します」


ルシアンはペンを受け取り、震える手で署名した。


紙の上で、二人の名前が並ぶ。


たったそれだけの儀式。


ファンファーレも、拍手もない。


あるのは、古い礼拝堂の匂いと、二人の呼吸音だけ。


「……成立だ」


キースが立ち上がり、満足げに紙を畳んだ。


「……帰るぞ、ルシアン。……森へ」


「ええ。……でも、どうやって?」


外はまだパレードの最中だ。


キースはルシアンの腰に手を回し、軽々と抱き上げた。


「……屋根伝いに抜ける。……舌を噛むなよ」


「またですか!?」


「……新婚旅行だ。楽しめ」


キースは礼拝堂の窓を蹴破り、青空へと飛び出した。


「きゃあああああ!!」


ルシアンの悲鳴が風に溶ける。


下では、影武者たちのパレードが最高潮を迎えていたが、本物の新郎新婦は、誰にも気づかれることなく、彼らの『静寂の城』へと帰っていった。


これが、後に歴史書に「前代未聞の神隠し婚」として記されることになる、二人の結婚式の全貌である。


しかし、物語はまだ終わらない。


結婚はゴールではない。


「同居生活」という名の、新たな戦いの始まりなのだ。


特に、初夜という最大の難関が、静かに、しかし確実に迫っていた。

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