第23話
地下室の『完全無音室』は、今や『静寂の講和会議場』と化していた。
中央の小さな机を挟んで、ルシアンとキースが対峙している。
二人の間には、殺伐とした空気――ではなく、異様な熱気が漂っていた。
ルシアンはスケッチブックをめくり、新しいページに大きく『第1条』と書き込んだ。
彼女の表情は真剣そのものだ。
これはただの婚前契約ではない。彼女の今後の人生における「静寂」の総量が決まる、極めて重要な闘いなのだ。
『第1条:会話の制限について』
ルシアンはペンを走らせる。
『基本、会話は筆談とする。発声による会話は「一日三言」までとする』
彼女はドヤ顔でスケッチブックを突き出した。
三言。
「おはよう」「おやすみ」「いただきます」。これで終わりだ。完璧な静寂ライフ。
キースはボードを見た瞬間、眉間にシワを寄せた。
そして、猛烈な勢いで書き殴った。
『却下』
『少なすぎる』
『愛の囁きが含まれていない』
(……愛の囁き?)
ルシアンがジト目で睨むと、キースは真顔で書き足した。
『最低でも一日百言は必要だ』
『内訳:愛してる(50回)、可愛い(30回)、その他(20回)』
『多いです! 却下!』
ルシアンはスケッチブックを叩いた。
『そんなに言われたら、鼓膜が摩耗します! それに、愛の言葉は量より質です!』
キースは少し考え込み、不服そうに修正案を出した。
『では、十言。ただし、緊急時の「好きだ」はカウントしない』
『……まあ、十言なら妥協しましょう』
ルシアンは渋々頷いた。
第一ラウンド、引き分け。
続いて、最大の争点である『第2条』へ移る。
ルシアンは深呼吸をし、決意を込めて書いた。
『第2条:寝室について』
『寝室は別々とする。互いのプライベート空間(半径10メートル)を侵さないこと』
これだけは譲れない。
睡眠こそ、究極の「おひとり様タイム」だ。
いびき、寝返りの音、体温。それらは全て安眠の妨げになる。
だが、キースの反応は劇的だった。
ガタンッ!
彼は椅子を蹴って立ち上がり、ホワイトボードにマジックの芯が折れるほどの筆圧で書いた。
『断固拒否』
『論外』
『寝室は同室。ベッドも一つ(キングサイズ)とする』
ルシアンも立ち上がった。
『嫌です! 狭いです! 暑いです! 私は大の字で寝たいのです!』
『キングサイズなら大の字になれる』
『そういう問題ではありません! 気配が気になるのです!』
『気配は消す』
キースは自信満々に書いた。
『俺は「隠密」のプロだ。隣にいても、お前は俺の存在に気づかない』
『気づきますよ! 心音が聞こえるって話をしたばかりじゃないですか!』
『心臓も止める』
『死にますよ!?』
『呼吸もしない。体温も下げる。石になる』
『死体と一緒に寝るみたいで怖いです!』
膠着状態(デッドロック)。
二人は睨み合った。
ルシアンは譲歩案を出した。
『では、部屋は同じでもいいですが、ベッドは別々にしましょう』
キースは首を横に振った。
『ダメだ』
『なぜですか』
キースは少し目を伏せ、ペンをゆっくりと動かした。
『……怖いんだ』
『何が?』
『朝起きた時、お前がいなくなっているんじゃないかと』
『……』
『触れていないと、安心できない』
『俺は、分離不安かもしれない』
(……ずるい)
ルシアンは胸がキュンとなった。
「影の英雄」と呼ばれる男が、捨てられた子犬のような目で訴えてくるのだ。
これを拒絶できる女性がいたら、心臓がミスリルでできているに違いない。
ルシアンは長いため息をつき、スケッチブックに書いた。
『わかりました。同室同ベッドで構いません』
キースの顔がパァッと輝いた。
『ただし!』
ルシアンは急いで追記した。
『抱き枕の使用を許可してください。貴方と私の間に、抱き枕(防壁)を置きます』
『……抱き枕の中身は俺ではダメか?』
『ダメです。綿です』
『チッ』
舌打ちが聞こえた気がしたが、キースは『承諾』と書いた。
第二ラウンド、キースの判定勝ち。
そして最後の『第3条』。
ルシアンは、少し迷った末に、以前から気になっていたことを書いた。
『第3条:お触りについて』
『頭を撫でるのは許可しますが、人前での過度なスキンシップは禁止です』
『特に「お姫様抱っこ」での移動は、恥ずかしいのでやめてください』
キースは真剣な顔で図面を描き始めた。
棒人間が二人。
一人がもう一人を抱えている図だ。
『緊急退避の場合は?』
『緊急時のみ許可します』
『「ルシアン分」が不足して、俺が禁断症状を起こした場合は?』
『それは緊急時ではありません。自制してください』
『無理だ』
『頑張ってください』
『では、一日一回、30秒の充電(ハグ)を要求する』
『……10秒で』
『20秒』
『15秒。これ以上は譲りません』
『……交渉成立』
キースは満足げにペンを置いた。
ルシアンもスケッチブックを閉じた。
こうして、『静寂条約』という名の、実質的な『イチャイチャ許容契約』が締結された。
キースはボードを消すと、最後に大きく一言書いた。
『これで、俺たちは共犯だ』
『もう逃がさない』
ルシアンはその文字を見て、苦笑した。
逃げる気など、とっくになかった。
この面倒で、重たくて、でも温かい「静寂」の中に、自ら囚われることを選んだのだから。
『ええ、覚悟の上です』
ルシアンが書くと、キースはボードを放り出し、テーブル越しに身を乗り出して、ルシアンの手を握った。
条約締結の握手。
……にしては、指が絡み合い、熱っぽすぎる握手だった。
「……さて」
キースが口を開いた。
久しぶりの肉声。
低く、優しい声が、無音室に響く。
「……書類は整った。……次は、王への報告だ」
「……そうですね」
ルシアンも、掠れた声で答えた。
「……国王陛下に、私たちの『同盟』を認めさせに行きましょう」
「……ああ。……文句は言わせない」
キースは立ち上がり、ルシアンをエスコートするように手を差し出した。
「……行くぞ、未来の辺境伯夫人」
「……はい、旦那様(仮)」
二人は地下室を出た。
目指すは王宮。
この国の最高権力者が待つ場所へ。
だが、二人はまだ知らない。
国王陛下が、ただの「報告」で済ませるつもりなど毛頭なく、国を挙げた『盛大な結婚式(公開処刑)』を画策していることを。
静かなるカップルの前に、最大の「騒音イベント」が待ち受けていた。
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