第22話

聖女メロディの襲来から数日。


森は、かつてないほどの静寂を取り戻していた。


「魔王が出る」「叫び声を聞くと呪われる」という噂が広まったおかげで、野次馬はおろか、鳥さえも近寄らなくなったからだ。


ルシアンは、地下の『完全無音室』で、喉の保養をしていた。


(……平和だわ)


彼女はソファに深く沈み込み、膝の上のスケッチブックにペンを走らせる。


『喉の調子、だいぶ良くなりました』


向かいに座るキースにそれを見せると、彼は無言で頷き、新しいフリップボード(どこから調達したのか、ホワイトボード仕様)を取り出した。


キュッ、キュッ、キュッ。


マーカーの音が響く。


『無理をするな。あと三日は筆談にしろ』


達筆な文字だ。


ルシアンは小さく笑い、再びスケッチブックに書く。


『貴方も筆談にする必要はないのですよ?』


キースは首を横に振った。


『お前が喋れないのに、俺だけ喋るのは不公平だ』


(……律儀な人)


ルシアンは胸が温かくなった。


この数日、二人の会話は全てこのボードとスケッチブックで行われていた。


音のない会話。


だが、それは言葉を交わすよりもずっと濃密で、そして少しだけ気恥ずかしい時間だった。


その時。


ブオン。


地下室の転送ポット(書類受け渡し用)が作動し、一通の封筒が吐き出された。


封蝋には、王家の紋章。


キースの表情が曇る。


彼は封筒を開け、中身を一読すると、眉間に深い皺を刻んだ。


『なんて書いてありますか?』


ルシアンが書くと、キースはボードに殴り書きした。


『国王からの呼び出しだ。「魔王(俺)と、その使い魔(お前)に会いたい」と』


『使い魔扱い!?』


ルシアンは抗議の文字を書こうとしたが、キースの手がそれを制した。


彼は真剣な眼差しで、しばらく考え込んでいた。


そして、何かを決意したように、一度ボードの文字を全て消した。


(……?)


キースは、ルシアンを真っ直ぐに見つめた。


その瞳は、いつもの無愛想なものではなく、熱を帯びた、吸い込まれそうな漆黒だった。


彼はゆっくりと、丁寧に、文字を書き始めた。


キュッ……キュッ……。


迷いのない筆致。


書き終えると、彼はボードをルシアンに向けた。


そこに書かれていたのは、衝撃の一文だった。


『結婚してくれ』


「…………ッ!?」


ルシアンは音にならない悲鳴を上げ、持っていたペンを取り落とした。


コロコロ……。


ペンの転がる音だけが、無音室に響く。


(え? 今、なんて?)


ルシアンは目を擦った。


幻覚ではない。


黒い太字で、明確に『結婚』と書かれている。


混乱するルシアンをよそに、キースはボードを裏返し、さらに続きを書き始めた。


『お前を、王家の干渉から守るには、これしかない』


『辺境伯夫人の地位があれば、国王も手出しできない』


『アランも、公爵も、二度と近づけない』


(……なるほど、政略的な意味ね)


ルシアンは少し冷静になった。


確かに、今の彼女は「公爵家を勘当されかけた厄介者」だ。


キースの妻になれば、身分も保証され、最強の盾が手に入る。


合理的だ。


とても彼らしい提案だ。


(でも……それだけ?)


ルシアンは少しだけ期待していた自分がいたことに気づき、頬を膨らませた。


彼女はスケッチブックを拾い上げ、震える手で書いた。


『それは、私を守るための「偽装結婚」という提案ですか?』


キースがその文字を見た瞬間、彼の表情が歪んだ。


「偽装」という言葉が気に入らなかったらしい。


彼は猛烈な勢いでボードを消し、新しい文字を叩きつけるように書いた。


『違う』


『偽装ではない』


『俺は、お前が欲しい』


「…………///」


ルシアンの顔が、熟れたトマトのように真っ赤になった。


直球すぎる。


無口な男の筆談は、言葉のフィルターがない分、破壊力が桁違いだ。


キースはさらに書き続ける。


まるで、今まで溜め込んでいた言葉を全て吐き出すように。


『お前の沈黙が好きだ』


『お前の書く小説が好きだ』


『お前が食べる顔が好きだ』


『俺の作った飯を美味そうに食うところを見ると、胸が苦しくなる』


(……最後のは、ただの餌付け成功例では?)


ツッコミを入れたかったが、手が震えて書けない。


キースはボードを一度置き、懐から何かを取り出した。


それは、一枚の図面だった。


建物の見取り図だ。


彼はボードに説明を書いた。


『これは、俺の領地にある本邸の図面だ』


『ここの「北棟」を見てくれ』


ルシアンが図面を見ると、北側に離れのような建物があった。


『ここは、断熱・防音・防湿、全て完備の要塞だ』


『地下には大書庫がある』


『窓からは万年雪の静かな山脈が見える』


『隣人はいない。俺の私兵団が半径十キロを警備している』


条件が良すぎる。


ルシアンの理想郷(ユートピア)そのものだ。


キースは、ボードに最後の一行を書き加えた。


『結婚してくれたら、この北棟をやる』


『お前の城だ。好きに使え』


『一生、静かに暮らせることを約束する』


これはプロポーズなのだろうか。


それとも、不動産の商談なのだろうか。


だが、ルシアンにとっては、どんな「愛してる」よりも心に響く殺し文句だった。


(……ズルい)


ルシアンは目頭が熱くなった。


彼は知っているのだ。


私が何を求め、何を恐れているのかを。


そして、その全てを受け入れ、守ろうとしてくれている。


(……断る理由なんて、ないじゃない)


ルシアンは涙を拭い、スケッチブックに向かった。


震える指で、大きく、一言だけ書く。


『条件があります』


キースが眉を上げた。


『なんだ』


ルシアンはページをめくり、悪戯っぽい笑みを浮かべて書いた。


『タダで嫁ぐのは癪です』


『今後の結婚生活における、詳細なルール(条約)を制定します』


『それが飲めるなら、お受けします』


キースはボードを見て、フッと笑った。


嬉しそうな、少年のような笑顔。


彼はボードに力強く書いた。


『交渉に応じよう』


『どんな条件でも飲む』


こうして、地下室での静かなる攻防戦――もとい、前代未聞の『筆談による婚前契約交渉』が幕を開けた。


二人の間にあるのは、紙とペンと、そして隠しきれない愛だけ。


だが、この交渉がそう簡単にまとまるはずもなかった。


なぜなら、ルシアンの提示する条件と、キースの独占欲(ヘビー級)が、正面から衝突することになるからだ。

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