第13話
ヒュオオオオオオオッ!!
風が唸る。
景色が流れる。
いや、流れるというレベルではない。溶けている。
ルシアンはキースの腕の中で、必死に目を閉じていた。
「……速すぎます!」
「……舌を噛むぞ」
「乗り心地が悪いです! 馬車より揺れないのは評価しますが、風圧で顔が変形しそうです!」
「……我慢しろ」
キースは王都の屋根を飛び移り、城壁を越え、街道を無視して森の中を直進していた。
人間業ではない。
彼の脚力は、もはや魔獣のそれに近かった。
一歩で数メートル跳躍し、着地の衝撃は膝のバネで完全に殺している。だからルシアンには衝撃が来ない。
だが、速度が異常だ。
「……着いたぞ」
唐突に、風が止んだ。
「へ?」
ルシアンが目を開けると、そこは見慣れた廃屋――いや、愛しき我が家(別荘)の玄関前だった。
「……嘘でしょう?」
ルシアンは呆然とした。
「王都まで、馬車で半日。馬の全力疾走で数時間。……貴方、今、三十分もかかっていませんよ?」
「……近道をした」
「物理法則を無視する近道なんて知りません!」
キースはルシアンを地面に下ろすと、涼しい顔で呼吸ひとつ乱していなかった。
「……風呂、沸かすか?」
「その前に説明を! 貴方、本当に人間ですか!?」
「……元、騎士団長だ」
「騎士団長があんな速度で移動していたら、戦場が混乱します!」
ルシアンは叫んだが、地面に足がついた安心感からか、へなへなと座り込んでしまった。
ドッと疲れが押し寄せてくる。
夜会での緊張、父との対決、伯爵への断罪、そして超高速移動。
今日のカロリー消費量は、彼女の一年分に相当した。
「……終わったわ」
ルシアンは夜空を見上げて呟いた。
「私の『壁の花作戦』……大失敗よ」
「……壁の花?」
キースが首を傾げる。
「そうよ。私は今日、会場の壁と同化して、誰の記憶にも残らずに帰ってくる予定だったの。それなのに……」
ルシアンは両手で顔を覆った。
「あんな大立ち回りを演じて、あまつさえ伯爵のズボンを下ろして(物理)、衆人環視の中で逃亡……。これでもう、社交界の語り草よ。『伝説の悪役令嬢』として、教科書に載るレベルだわ」
「……いいことだ」
「どこがですか!」
ルシアンはキースを睨んだ。
「これで『おひとり様』どころか、指名手配犯よ。お父様は激怒して、今頃軍隊を差し向けているかもしれないわ」
「……来ない」
キースは断言した。
「……なぜ分かるのですか?」
「……公爵は、メンツを大事にする」
キースは玄関の扉を開けながら言った。
「……娘が夜会で男を蹴散らし、謎の男と駆け落ちしたなどと公表すれば、公爵家の恥だ。……当面は『体調不良で療養に戻った』として隠蔽するはずだ」
「……あ」
確かに。
父は世間体を何よりも重んじる。
「伯爵の件も、向こうが先に手を出そうとした。……お前は正当防衛だ。それに、あんな恥ずかしい姿を晒した伯爵の方が、口封じに必死になるだろう」
「……言われてみれば」
ルシアンは少し希望を持った。
「つまり、私はまだ『静寂ライフ』を続けられる?」
「……ああ」
キースはリビングの暖炉に火をつけながら、振り返った。
「……ただし」
「ただし?」
「……もう、王都には行くな」
キースの瞳が、揺らめく炎を映して赤く光った。
「……心臓に悪い」
「……貴方がですか?」
「……お前が他の男に囲まれているのを見るのは、不快だ」
「…………」
ルシアンは口をパクパクさせた。
それは、独占欲というやつではないか。
「……同盟違反では?」
「……特例措置だ」
キースは強引に話を打ち切り、キッチンへ向かった。
「……夜食は、リゾットにする」
「……チーズ多めでお願いします」
ルシアンは降参した。
もういい。
指名手配だろうが、伝説の悪役令嬢だろうが、この温かい部屋と、美味しいご飯と、静かな隣人がいれば、それでいい。
ルシアンは重たいドレスを脱ぎ捨てるべく、自室へと向かった。
「……あ、キースさん」
「……ん」
「ありがとう。……助けに来てくれて」
素直な言葉。
キースの背中が、一瞬だけ固まった。
「……仕事だ」
照れ隠しのぶっきらぼうな返事。
だが、ルシアンには分かっていた。彼がリゾットの鍋をかき混ぜる速度が、いつもより少しだけ軽快になっていることを。
***
翌日。
予想通り、公爵家からの追手は来なかった。
その代わり、新聞が届いた。
ハンスが命がけで(キースの罠を回避して)届けてくれたのだ。
一面トップ。
『悪役令嬢ルシアン、セクハラ伯爵を成敗! 正義の鉄槌(ベルト切断)に称賛の嵐!』
「……はあ?」
ルシアンは記事を二度見した。
『昨夜の夜会にて、好色で知られるガルシア伯爵が、ルシアン嬢に乱暴を働こうとした際、彼女の気高いオーラが奇跡を起こした! 伯爵のベルトが自然に弾け飛び、その醜態が晒されたのだ! これは天罰か、あるいは彼女の魔力か!?』
「……奇跡扱いにされてる」
キースのナイフ投げが、神の御業にすり替わっていた。
『去り際の「謹んでお断り申し上げます」というセリフは、今年の流行語大賞間違いなし! 多くの令嬢たちが「私もあのように毅然と拒絶したい」と涙したという』
「……なんで?」
どうしてこう、自分の行動は全て美談に変換されてしまうのか。
「……良かったな」
キースが新聞を覗き込む。
「……これでガルシアは失脚だ。公爵もお前を政略結婚の駒には使いにくくなる」
「それはそうですけど……」
ルシアンは溜息をついた。
「『壁の花』にはなれなかったわ」
「……花ではない」
キースがボソッと言った。
「……高嶺の花だ。……誰の手も届かない場所で、ひっそりと咲いていればいい」
「……それ、褒めてます?」
「……俺だけが、見ている」
「ッ……!」
不意打ちの殺し文句。
ルシアンは顔を真っ赤にして、持っていた新聞でキースの肩を叩いた。
「……静かにしてください! 朝から重いです!」
「……事実だ」
キースは動じない。
「……それに、壁の花作戦は失敗したが、別の作戦は成功している」
「別の作戦?」
「……『二人きりの引き籠もり生活』維持作戦だ」
キースは満足げに、庭のトマトを収穫しに外へ出て行った。
残されたルシアンは、誰もいない部屋で一人、頭を抱えた。
「……完全に、外堀が埋まっている気がする」
婚約破棄から二週間。
ルシアンの『孤独』は、もはや『二人だけの世界』へと変貌を遂げていた。
だが、平和は長くは続かない。
次なる騒音は、アラン王子でも公爵でもない。
アラン王子が「ルシアンを諦めた」という情報を聞きつけた、『復縁』を目論むあの男の再来だった。
そう、アランだ。
彼が懲りずにまた来るのだ。
「……ん? なんか悪寒が」
ルシアンは背筋を震わせた。
この予感は外れない。
静寂同盟の敵は、しぶといのだった。
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