第14話
それは、嵐の前の静けさ――ではなく、嵐の後の『燃え尽き症候群』のような朝だった。
夜会での大捕り物から二日後。
ルシアンはテラスで、死んだ魚のような目で空を見上げていた。
「……平和だわ」
鳥のさえずりさえ、今の彼女には少しうるさい。
それほどまでに、先日の王都遠征は彼女の精神力を削り取っていた。
(もう動きたくない。一生、このロッキングチェアと融合していたい)
隣では、キースがいつものように無言でナイフを研いでいる。
シュッ、シュッ。
規則的なその音だけが、ルシアンの心を癒やす鎮静剤だった。
「……キースさん」
「……ん」
「研ぐのはいいですけど、何を切るつもりですか? 食材ですか、それとも新たな刺客ですか?」
「……両方に対応できる準備だ」
「頼もしいですけど、物騒ですね」
そんな緩やかな会話を交わしていた、その時だった。
ガサガサッ!!
庭の植え込みが激しく揺れた。
キースの手が止まる。
ルシアンも身を起こした。
(熊? それとも野犬?)
茂みから飛び出してきたのは、そのどちらでもなかった。
「はぁ……はぁ……水……水をくれ……」
ボロボロの服を着て、目の下に濃い隈(くま)を作り、頬がこけた男。
髪はボサボサで、かつての輝きは見る影もない。
「……ゾンビ?」
ルシアンが呟くと、男はギョッとして顔を上げた。
「誰がゾンビだ!! 私だ、アランだ!!」
「えっ」
ルシアンは二度見、三度見した。
よく見れば、その薄汚れた服は王族仕様の最高級シルク(泥まみれ)。
そして、その無駄に通る声量。
間違いない。元婚約者のアラン第一王子だ。
「……殿下? どうされたのですか、そのお姿は。山賊にでも襲われました?」
「山賊の方がマシだ!!」
アランはテラスの柵を乗り越え、倒れ込むようにルシアンの足元にすがった。
「助けてくれルシアン! 匿ってくれ! あいつから……あいつから逃げてきたんだ!」
「あいつ?」
「ミナだ!!」
アランが絶叫した。
「あいつは化け物だ! 四六時中喋り続けている! 寝ている時でさえ『アラン様ぁ』と寝言を言う! 朝は『愛の詩』の朗読で起こされ、昼は『お揃いの服』を着せられ、夜は『今日の反省会』だ!」
「……楽しそうで何よりです」
「地獄だ!!」
アランは頭を抱えて震え出した。
「私の周りには常にピンク色の何かが漂っている! 香水の匂いで鼻が麻痺した! そして何より……静寂がない! 一秒たりとも静かな時間がないんだ!」
彼は血走った目でルシアンを見上げた。
「そこで、私は思い出したのだ。……君のことを」
「はい?」
「ルシアン、君は素晴らしかった!」
アランが立ち上がり、両手を広げる。
「君は喋らなかった! 私の隣で、常に無表情で、地蔵のように黙っていた! あれこそが『美徳』だったのだ! 君の沈黙は、金(ゴールド)よりも価値のあるダイヤモンドだった!」
「……褒められている気がしませんわね」
ルシアンは冷めた紅茶を啜った。
「要するに、新しいおもちゃが騒がしすぎて壊れたから、古いおもちゃ(静かな方)に戻りたいと?」
「言い方が悪いな! 『真実の愛に気づいた』と言ってくれ!」
アランはニカッと笑った。歯に海苔がついているように見えるほど、その笑顔は薄汚れていた。
「ルシアン、復縁してやろう! 君を正妃に戻す! 感謝しろ!」
「……」
「どうした? 嬉しすぎて声が出ないか? ああ、その沈黙だ! その『反応のなさ』が、今の私には心地いい!」
アランがルシアンの手を取ろうと踏み出した。
ヒュッ。
銀色の閃光が走った。
「ひぃっ!?」
アランの鼻先数センチを、キースのナイフが掠めた。
ナイフはそのままテラスの柱に深々と突き刺さる。
「……次はない」
キースが低い声で告げた。
彼はいつの間にかルシアンの前に立ち、アランを見下ろしていた。
その瞳は、ゴミを見る目そのものだった。
「な、なんだ貴様は! 使用人の分際で王子に刃を向けるとは!」
「……俺は、この屋敷の『防音壁』だ」
「は?」
「……騒音は、通さない」
キースは指の関節をボキボキと鳴らした。
「……帰れ。それとも、二度と喋れないように喉を潰すか?」
「ひ、ひえぇ……!」
アランは腰を抜かしたが、それでも諦めきれないらしく、キースの足の間からルシアンに訴えかけた。
「ル、ルシアン! 聞いてくれ! ミナは本当にやばいんだ! 昨日なんて『アラン様の爪の垢を煎じて飲みたいから爪を切ってください』と言って、ハサミを持って追いかけてきたんだぞ!?」
「それは……確かにホラーですね」
ルシアンは少しだけ同情した。
「ですが、殿下。それは貴方が選んだ道です。ご自身でおっしゃったではありませんか。『賑やかな方がお似合いだ』と」
「撤回する! 前言撤回だ! 私は静かな女がいい! 君のように、何を考えているか分からなくて、薄気味悪いくらい大人しい女がいいんだ!」
「失礼極まりないですね」
ルシアンは立ち上がった。
「お帰りください。私と貴方では、生きる世界が違います」
「な、なぜだ! 私は王子だぞ! 金も権力もある!」
「貴方には、決定的に欠けているものがあります」
ルシアンは自分の耳を指差した。
「『デシベルへの配慮』です」
「デシベル?」
「貴方の声は大きすぎます。存在そのものが騒音です。貴方が近くにいるだけで、私の鼓膜は悲鳴を上げ、脳細胞がストレスで死滅していきます」
「そ、そんな……」
「対して、こちらの彼は」
ルシアンはキースの背中に手を置いた。
「一日中一緒にいても、風の音より静かです。呼吸音すら聞こえません。……比較になりませんわ」
「こ、こんな根暗な男のどこがいいんだ!」
「静かさです(即答)」
ルシアンはアランを冷たく見下ろした。
「それに、私、気づいてしまったのです。……私は『おひとり様』が好きなのではなく、『静かな人との二人きり』が好きなのだと」
「……ッ!」
キースの背中がビクリと震えた。
耳が真っ赤になっているのが、後ろからでも分かった。
「……というわけで、復縁はお断りです。二度と来ないでください。……鼓膜が破れますので」
ルシアンが言い切った、その時。
森の奥から、地響きのような音が聞こえてきた。
ズシン、ズシン、ズシン。
そして、あの甲高い声が響き渡った。
「アラン様ぁぁぁぁぁ~~~!! どこですのぉぉぉぉ~~~!!」
「!!」
アランの顔色が、土気色から死神色へと変わった。
「き、来た……! 嗅ぎつけられた……! あいつ、私のフェロモンを追跡できる能力があるんだ!」
「警察犬並みですね」
「ルシアン! 隠してくれ! 地下室でも屋根裏でもいい! 頼む!」
アランが這いつくばって懇願する。
だが、キースが無慈悲に指差した。
「……あっちだ」
「え?」
キースが指差したのは、森の入り口。
そこには、ピンク色のドレスを泥だらけにし、髪を振り乱し、両手に捕獲網を持ったミナが仁王立ちしていた。
「みーつけたぁぁぁぁ♡」
ミナの目が怪しく光った。
「あ、あ、ああ……」
アランが絶望の声を漏らす。
「かくれんぼは終わりですわ、アラン様! さあ、お城に帰りましょうねぇ! 今日は二人で、愛のデュエットを五時間歌う約束でしょう?」
「いやだぁぁぁ! 助けてくれぇぇぇ!」
アランが逃げようとするが、ミナの投網(いつの間に習得したのか)が正確に彼を捉えた。
バサッ!
「捕獲完了ですわ♡」
「放せ! 誰か! 人権団体の介入を求む!」
網の中でもがく王子を引きずりながら、ミナはルシアンに向かって満面の笑みで手を振った。
「お姉様! アラン様を見つけてくださってありがとうございます! お礼に今度、私のリサイタルにご招待しますわね!」
「結構です! 永久に欠席します!」
ルシアンが叫ぶと、ミナは「うふふ」と笑いながら、ズルズルとアランを森の奥へと引きずっていった。
「ルシアァァァン……!! 見捨てないでくれぇぇぇ……!!」
アランの断末魔が、こだまとなって消えていく。
シーン。
再び、森に静寂が戻った。
「……嵐のような人たちだったわね」
ルシアンは疲労困憊で椅子に座り込んだ。
「……よく言った」
キースがポツリと言った。
「え?」
「……『静かな人との二人きり』が好き、と」
キースは背を向けたまま、柱に刺さったナイフを引き抜いた。
「……あれは、本心か?」
「…………」
ルシアンの顔がカッと熱くなった。
勢いで言ってしまったが、あれは事実上の告白に近かったのではないか。
「そ、それは……アラン殿下を追い払うための方便で……」
「……俺は、本気にした」
キースが振り返る。
その顔には、今まで見たこともないような、優しく、そして少し悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「……責任、取ってもらうぞ」
「せ、責任って……」
「……一生、俺の『静寂』に付き合ってもらう」
「なっ……!」
それはプロポーズなのか。
それとも、新たな脅迫なのか。
ルシアンが反論しようと口を開きかけた時、キースが人差し指を彼女の唇に当てた。
「……しっ」
「……んぐっ」
「……今は、静寂を楽しもう」
キースの指の熱さが、唇に残る。
ルシアンは真っ赤な顔で頷くことしかできなかった。
騒がしい元婚約者の襲来は、皮肉にも二人の絆を(そしてキースの独占欲を)より強固なものにしてしまったようだ。
だが、これで終わりではない。
アラン撃退の報は、すぐに王都に知れ渡る。
そして次に動くのは、今まで静観していた『ラスボス』的な存在――そう、あの噂の出所を探る、王国の『諜報機関』の手先かもしれない。
キースの正体がバレる危機は、すぐそこまで迫っていた。
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