第8話
人間の三大欲求。
食欲、睡眠欲、そして――ルシアンの場合は『静寂欲』。
彼女にとって、食欲の優先順位は著しく低い。
食べることは生きるために必要だが、その工程があまりにも面倒だからだ。
献立を考え、食材を用意し、調理し、食べ、そして後片付けをする。
この一連のプロセスにかかる時間と労力を、すべて読書や睡眠(二度寝)に充てたい。
それがルシアン・ヴァイオレットという生物の基本思想であった。
「……これでいいわ」
別荘生活、一週間目。
ルシアンの昼食は、悲劇的なほど簡素だった。
テーブルの上に置かれているのは、保存食の堅パン一枚と、干し肉の欠片。
以上。
「栄養は摂取できる。腹も満たせる。所要時間は三分。完璧ね」
ルシアンは自分に言い聞かせ、石のように硬いパンを齧った。
ガリッ。
「……硬っ」
顎に衝撃が走る。
これを口の中でふやかして飲み込む作業は、食事というより土木工事に近い。
だが、キッチンに立って火を起こす手間よりはマシだ。
ルシアンが二口目に挑もうとした、その時だった。
スッ……。
音もなく、背後から手が伸びてきた。
その手は、ルシアンが持っていた堅パンをひょいと取り上げた。
「あ」
振り返ると、エプロン姿(黒一色)のキースが立っていた。
彼は奪い取った堅パンをまじまじと見つめ、眉間に深いシワを寄せた。
「……なんだ、これは」
「見ればわかりますでしょう。私の昼食です」
「……建材か?」
「食べ物です! 保存性に優れた、由緒正しき堅パンです!」
「……武器になる」
キースは堅パンでテーブルの角をコンコンと叩いた。
乾いた音が響く。
「……こんなものを食っていたら、心が荒む」
「余計なお世話です。貴方が直してくれたキッチン、広すぎて掃除が大変なので使いたくないのです」
ルシアンが抗議すると、キースは深いため息をついた。
そして、堅パンを無造作に自分のポケットに突っ込んだ。
「返してください!」
「……没収だ」
「なっ……! では私は何を噛じればいいのですか! 机の脚ですか!?」
「……黙って、座っていろ」
キースはルシアンを椅子に押し戻すと、流れるような動作でキッチンへ向かった。
彼の動きは洗練されていた。
包丁を握れば剣舞のように野菜が刻まれ、フライパンを振れば食材が踊る。
ジュウウウゥゥ……。
肉が焼ける芳醇な香りが、リビングいっぱいに広がる。
バターの甘い香り。
香辛料の刺激的な香り。
ルシアンの胃袋が、意思に反して「グゥ~」と盛大なファンファーレを奏でた。
「…………」
ルシアンは顔を覆った。
(恥ずかしい……! 堅パンで済ませようとしていた矜持が、匂いだけで崩壊するなんて!)
十分後。
目の前に置かれたのは、王都の三ツ星レストランでもお目にかかれないような逸品だった。
『厚切りベーコンと森キノコのソテー ~特製バルサミコソースを添えて~』
『完熟トマトと地鶏のコンソメスープ』
『焼きたてのフォカッチャ(ローズマリー風味)』
「……食え」
キースが短く命じる。
「……あの、キースさん」
ルシアンはフォークを手に取りながら、震える声で尋ねた。
「この食材は、一体どこから?」
「……狩った」
「ベーコンも?」
「……燻製した」
「いつの間に!?」
「……お前が寝ている間に」
この男、スペックが高すぎる。
家屋の修繕から狩猟、料理まで、生活スキルの全項目がカンストしているのではないか。
ルシアンは観念して、ベーコンを口に運んだ。
「……んっ!」
言葉が出なかった。
噛んだ瞬間に溢れ出す肉汁。
スモーキーな香りと、肉の旨味が口内を席巻する。
キノコの食感も絶妙で、ソースの酸味が食欲を無限に増幅させる。
美味しい。
悔しいけれど、涙が出るほど美味しい。
「……どうだ」
キースが腕組みをして見下ろしている。
感想を求めているわけではない。
ただ『堅パンよりマシだろう』という無言の圧力をかけてきているのだ。
「……負けました」
ルシアンは白旗を上げた。
「最高に美味しいです。悔しいですけど、私の人生で一番の昼食です」
「……なら、いい」
キースは満足げに頷くと、自分も向かいの席に座り、同じメニューを食べ始めた。
沈黙のランチタイム。
だが、気まずさは微塵もない。
ただカトラリーが皿に当たる音と、咀嚼音だけが静かに響く。
(……変ね)
ルシアンはスープを飲みながら思った。
(一人が好きなはずなのに。誰かと食事をするのが、こんなにストレスフリーだなんて)
王家との食事会は地獄だった。
テーブルマナーに気を使い、毒が入っていないか警戒し、つまらない世間話に愛想笑いを浮かべる。
味などしなかった。
だが、キースとの食事は違う。
彼はマナーなど気にしない(しかし食べ方は綺麗だ)。
会話もしない。
ただ『美味いものを食う』という一点においてのみ、二人の意識は共有されている。
「……キースさん」
「……ん」
「貴方、料理人になればよかったのでは?」
「……昔、戦場で覚えた」
「戦場?」
「……不味い飯は、士気を下げる。……俺は部下に、泥水のようなスープを飲ませたくなかった」
キースの瞳が、ふと遠くを見た気がした。
『沈黙の騎士』と呼ばれる彼にも、過酷な過去があるのだろうか。
「……優しいのですね」
ルシアンがポツリと言うと、キースはビクリと反応し、視線を泳がせた。
「……違う」
「何が違うのですか?」
「……これは、餌付けだ」
「は?」
キースは真顔で言った。
「……お前は、放っておくと死ぬ。……堅パンで喉を詰まらせて死ぬ未来が見えた」
「そこまで間抜けではありません!」
「……だから、俺が管理する。……胃袋を掴めば、お前は逃げられない」
「……え、それどういう意味ですか?」
それは求婚の文句か何かですか。
それとも、ペットを懐かせるためのマニュアル実践ですか。
ルシアンが突っ込もうとすると、キースはスッと立ち上がった。
「……デザートがある」
「まだあるんですか!?」
彼が冷蔵庫(もちろん魔石式ではなく、キースが氷室から氷を運んで作った天然冷蔵庫)から取り出したのは、プルプルの果実ゼリーだった。
森で採れた野苺がふんだんに使われている。
キラキラと輝くその物体を見て、ルシアンの乙女心が陥落した。
「……食べます」
「……よし」
キースの勝ち誇った顔。
ルシアンは悟った。
自分はもう、この男の手のひら(料理)の上で転がされているのだと。
「……明日からは、何が食べたい」
ゼリーを食べ終えたルシアンに、キースが問う。
「リクエスト制なのですか?」
「……可能な限り、叶える」
「……じゃあ、オムライス」
「……了解」
「クリームコロッケ」
「……任せろ」
「あと、チーズケーキ」
「……焼いておく」
「……貴方、本当に何者?」
キースは答えなかった。
ただ、エプロンの紐を解きながら、背中でこう語っていた。
『お前の専属シェフ(兼ストーカー)だ』と。
こうして、ルシアンの『食』に対する意識改革――もとい、完全なる依存化計画は、着々と進行していった。
もはや彼女は、堅パン生活には戻れない。
キースのいない食卓など、考えられない体になりつつあった。
それはある意味、アラン王子からの婚約破棄よりも重大な、ルシアンの『孤高』の危機であったが、満腹の彼女はまだその重大さに気づいていない。
「……ごちそうさまでした。食器は洗います」
「……いらん。俺がやる」
「それくらいさせてください。家畜になりたくありません」
「……家畜じゃない」
キースは流し台に立ちながら、ボソッと言った。
「……姫だ」
「はい?」
水音にかき消されて、よく聞こえなかった。
「なんでもない。……座って、茶でも飲んでろ」
「……過保護すぎません?」
文句を言いながらも、ルシアンは再び椅子に座り、お腹をさすった。
幸福な満腹感。
窓の外では、小鳥たちが楽しげに歌っている。
(……まあ、いいか)
餌付けされるのも、悪くない。
そう思い始めた時点で、ルシアンの敗北は決定していたのかもしれない。
そして、この平和な『餌付けライフ』が、次なる訪問者によって再び騒がしくなるのは、数日後のことである。
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