第9話

「……危機だわ」


ルシアンは、手入れされたばかりの庭のベンチに座り、深刻な面持ちで呟いた。


彼女の膝の上には、読みかけの哲学書。


そしてサイドテーブルには、湯気を立てる極上のロイヤルミルクティーと、焼きたてのスコーン(クロテッドクリーム添え)。


これらは全て、例の「隣人」キースによる仕事である。


ここ一週間の生活は、堕落の一途を辿っていた。


朝起きれば顔を洗う水が用意され、食堂に行けば朝食が出てくる。


掃除も洗濯も、気づけば終わっている。


ルシアンがやるべきことといえば、呼吸と読書と、時折キースが運んでくるおやつを咀嚼することだけ。


(……これではいけない。私は『孤高の悪役令嬢』として、一人で生きていくと決めたはず)


誰かに依存するのは危険だ。


その誰かがいなくなった瞬間、自分は何もできない廃人になってしまう。


それに、キースとの距離感が近すぎる。


会話こそ少ないが、彼の存在感は日に日に増している。


(線引きが必要ね。ここは私の城。彼に主導権を握らせてはならないわ)


ルシアンは決意を固め、パタンと本を閉じた。


ちょうどその時、庭の奥からキースが歩いてきた。


片手には斧、もう片方の肩には切り出したばかりの丸太を軽々と担いでいる。


相変わらずのハイスペック肉体労働だ。


「……キースさん」


ルシアンが呼び止めると、彼は足を止め、無言で首を傾げた。


「少し、お話があります。そこに座ってください」


キースは素直に従った。


ドスン、と丸太を地面に置き、ベンチの反対側に腰掛ける。


適度な距離感。


だが、ルシアンは更に居住まいを正した。


「単刀直入に言います。貴方、少し私に構いすぎです」


「…………」


キースは瞬きを一つした。


心外だ、と顔に書いてある。


「……構っていない。……生かしているだけだ」


「それが構いすぎなのです。餌付け、環境整備、警備。これではまるで、過保護な飼い主とペットです」


「……ペットではない」


キースは即答した。


「……姫だ」


「だからその呼び方はやめてください。寒気がします」


ルシアンは咳払いをした。


「そこで、提案があります。私たちがこの森で共存していくための、ルール作りです」


「……ルール?」


「ええ。名付けて『静寂同盟』。どうでしょう?」


キースの瞳が、ほんの少しだけ輝いた気がした。


「……悪くない」


「でしょう? お互い、干渉を嫌う者同士。ここらで不可侵条約を結んでおくべきです」


ルシアンは指を一本立てた。


「第一条。会話は必要最低限に留めること」


キースは頷く。


「……同意する」


「挨拶も不要です。天気の話もいりません。『敵襲』『火事』『夕飯できた』以外の言葉は、原則として慎んでください」


「……了解」


「第二条。……これが最も重要です」


ルシアンはキースの目を真っ直ぐに見つめ、宣言した。


「私の視界に、極力入らないこと」


「…………」


キースが眉をひそめた。


「……なぜだ」


「貴方が視界にいると、気が散るからです。筋肉質すぎて圧迫感がありますし、顔が……その、整いすぎているので、目のやり場に困るのです」


後半は言うつもりはなかったが、口が滑った。


キースはポカンとした後、口元を手で覆った。


耳が赤い。


「……そうか」


「……ええ、そうです。ですから、貴方は私の『空気』になってください。そこにいるけれど、いない。認識できない存在。それが理想です」


ルシアンは無理難題を吹っかけたつもりだった。


同じ敷地内にいて、視界に入らないなど不可能だ。


これで彼が「無理だ」と言えば、妥協案として「一日の滞在時間を制限する」という条件に持ち込む予定だった。


しかし。


キースは静かに頷いた。


「……分かった」


「え?」


「……得意分野だ」


彼はスッと立ち上がった。


「……お前の視界から、消えてやる。……だが、護衛は続ける」


「え、ちょっと……」


言うが早いか、キースの姿がブレた。


シュッ。


風を切る音がしたかと思うと、彼の姿が消えていた。


「……へ?」


ルシアンは目をぱちくりさせた。


庭には誰もいない。


ベンチにも、木の陰にも。


「キースさん?」


返事はない。


ただ、風が葉を揺らす音だけが聞こえる。


「……本当に消えた?」


ルシアンは立ち上がり、周囲を見回した。


気配がない。


完全に、誰もいない空間だ。


(……すごい。本当に空気になったわ)


これぞ、彼女が求めていた理想の環境だ。


誰もいない。


でも、何かあれば助けてくれる(らしい)存在が、どこかに潜んでいる。


「ふふ……いいわね。これなら読書に集中できるわ」


ルシアンは再びベンチに座り、本を開いた。


静寂。


完璧なる静寂。


ページをめくる音が、心地よく響く。


……はずだった。


五分後。


(……視線を感じる)


ルシアンは顔を上げた。


誰もいない。


だが、確実に何者かに見られている感覚がある。


背筋がゾワゾワするような、熱っぽい視線。


「……キースさん?」


シーン。


「……いるのよね?」


シーン。


(……どこ? どこから見ているの?)


ルシアンはキョロキョロと視線を巡らせる。


屋根の上? いない。


木の上? 見当たらない。


茂みの中? 動く気配はない。


だが、喉が渇いたなと思ってカップに手を伸ばそうとすると、いつの間にかカップの中身が注ぎ足されているのだ。


「ヒッ!?」


ルシアンは悲鳴を上げた。


「い、いつの間に!?」


一瞬、視線を外した隙の出来事だった。


まるで魔法だ。


「で、出てきなさい! 心臓に悪いです!」


ルシアンが叫ぶと、背後の大きな樫の木の裏から、ヌッと黒い影が現れた。


「……呼んだか」


「近い! そして気配を消しすぎです!」


ルシアンは胸を押さえた。


「視界に入らないとは言いましたけど、忍者のように振る舞えとは言っていません!」


「……これが、俺の平常運転だ」


キースは平然と言い放った。


「……『隠密行動』は騎士の必須スキルだ」


「騎士ってそんなにコソコソするものですか!?」


「……敵に悟られず、主を守る。……それが影の務め」


「私は敵ではありません!」


ルシアンは頭を抱えた。


どうやら、この男のスペックを甘く見ていたようだ。


彼は『視界に入らない』という条件を、『完璧な隠密護衛』という形で実行してしまった。


結果、ルシアンは常に「見えない誰かに見守られている」という、ある種のホラー体験(またはストーカー被害)を強いられることになったのだ。


「……条約改正を求めます」


ルシアンは疲れた声で言った。


「第三条を追加します。……適度に、存在をアピールすること」


「……矛盾している」


「私の心が休まらないからです! 完全に消えられると、逆に気になって仕方ありません!」


キースは少し考え込み、やがて不承不承という様子で頷いた。


「……分かった。では、視界の端に映る程度にする」


「ええ、それで結構です。チラチラ見えるくらいが、安心できます」


「……安心?」


キースが反応した。


「……俺がいると、安心するのか?」


「ッ……!」


ルシアンは口ごもった。


誘導尋問に引っかかった気分だ。


「……そ、それは、防犯上の意味で、です。熊とか出たら困りますし」


「……そうか」


キースは口元を緩めた。


明らかに嬉しそうだ。


「……では、契約成立だ」


彼は右手を差し出した。


「……よろしく頼む、同盟者」


ルシアンは躊躇った。


握手。


肌と肌の接触。


それは「おひとり様」の流儀に反するのではないか。


だが、目の前の大きな手は、無骨で、傷だらけで、しかしどこか温かそうだった。


(……まあ、同盟なら仕方ないわね)


ルシアンはおずおずと、自分の小さな手を差し出した。


「……よろしくお願いします、隣人さん」


手が触れ合う。


予想通り、彼の掌は熱く、そして硬かった。


キースは強く握り返すことはせず、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。


「…………」


「…………」


沈黙。


しかし、それは居心地の悪いものではなかった。


「静寂同盟」。


その実態は、「互いに言葉少なに甘やかし合う共依存関係」の始まりであったが、二人がそれに気づくのはまだ先のことだ。


「……さて、祝杯だ」


キースが手を離し、どこからかワインボトルを取り出した。


「まだ昼ですよ?」


「……いいだろう、今日は」


「……そうですね。同盟結成記念日ですし」


二人はテラスで、静かにグラスを傾けた。


会話はない。


だが、ルシアンの心は満たされていた。


孤独を愛する彼女が初めて見つけた、「孤独を共有できる相手」。


(悪くないわ。……本当に)


ルシアンはグラス越しに、少し離れた場所に座るキースの横顔を盗み見た。


彼もまた、視界の端でルシアンを見守っている。


この奇妙で穏やかな均衡が、翌日に訪れる嵐によって吹き飛ばされるとは、この時の二人は知る由もなかった。


嵐は、物理的な意味でも、感情的な意味でも、すぐそこまで迫っていた。

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