第7話

森の奥深くにある廃墟(現在は快適なログハウス風別荘)に、平和な午後が訪れていた。


ルシアンはテラスのロッキングチェアに揺られながら、膝の上の本に視線を落とす。


傍らには、キースが淹れたハーブティー。


鳥のさえずりと、風の音。


そして、屋根の上でキースが雨樋を調整する微かな金属音。


(……最高ね)


ルシアンは目を細めた。


先日の『アラン&ミナ襲来事件』という悪夢のような騒音が嘘のようだ。


あの後、二人が二度と来ないように、キースは森の入り口に『落石注意』『熊出没』『毒蛇の巣』という看板を立ててくれたらしい。


その徹底ぶりには感謝しかない。


だが、ルシアンの平穏を脅かすものは、物理的な訪問者だけではなかった。


ガタゴト、ガタゴト。


聞き覚えのある馬車の音が近づいてくる。


「……また?」


ルシアンが警戒して身を起こすと、屋根の上からキースが顔を出した。


「……あれは、味方だ」


「味方?」


「……使用人」


現れたのは、あの日ルシアンをここまで送り届けた御者のハンスだった。


彼は馬車から飛び降りると、涙を流しながら駆け寄ってきた。


「お嬢様ぁぁぁ! ご無事でしたかぁぁぁ! ハンスは、ハンスは心配で夜も八時間しか眠れませんでしたぁぁぁ!」


「……十分寝ていますね、ハンス」


ルシアンは冷静に突っ込んだ。


「約束通り、一ヶ月分の食料と生活用品を持ってきました! ……って、あれ?」


ハンスは屋敷を見上げ、呆気にとられた顔をした。


「こ、ここは……本当にあの廃墟ですか? 壁が白い……窓がピカピカ……庭に花が咲いている……?」


「ええ、まあ。優秀な管理人がいますので」


ルシアンが屋根の上を指差すと、キースが無言でペコリと頭を下げた。


ハンスは「ひぃっ!?」とのけぞったが、すぐに気を取り直した。


「そ、そうですか。それは良かった……。ですがお嬢様、それどころではありません! 王都が大変なことになっているのです!」


「王都? またアラン殿下が何か?」


「違います! お嬢様の『評判』ですよ!」


ハンスは興奮気味に、鞄から数冊の週刊誌と新聞を取り出した。


「ご覧ください! 社交界は今、お嬢様の話題で持ち切りなのです!」


ルシアンは嫌な予感しかしないまま、新聞を受け取った。


一面トップには、デカデカとこう書かれていた。


『真実は沈黙の中にあり! 公爵令嬢ルシアン、元婚約者の暴挙を無言で断罪!』


「……は?」


「読んでください、ここです!」


ハンスが記事を指差す。


『先日、アラン殿下とミナ男爵令嬢が、療養中のルシアン嬢を訪問した件について、驚くべき証言が得られた。殿下らは「慰めに行った」と主張しているが、実態は執拗な嫌がらせであった可能性が高い。しかし、ルシアン嬢は罵詈雑言に対し、一言も言い返すことなく、ただ静寂を保ち続けたという』


ルシアンは眉をひそめた。


「……まあ、事実はその通りですけど」


言い返さなかったのは、面倒だったからだ。


記事は続く。


『その沈黙は、決して弱さではない。それは「貴方たちと同じ土俵には立たない」という、高潔なる貴族の矜持である! 嵐のような罵倒を柳のように受け流し、最後にはその気高さに圧倒された殿下たちが、恐れをなして逃げ帰ったとのことだ』


「……逃げ帰ったのは、キースの殺気にビビったからですが」


『まさに「氷の令嬢」の真骨頂。多くを語らず、背中で語るその姿に、社交界からは称賛の声が上がっている。「彼女こそ真の貴族だ」「沈黙は金、雄弁は銀という言葉を体現している」――今、ルシアン・ヴァイオレット株がストップ高だ!』


バサッ。


ルシアンは新聞を取り落とした。


「……な、なんなのこれ……」


「凄いでしょうお嬢様!」


ハンスが鼻息荒く語る。


「殿下たちが帰還後、『森で恐ろしい目に遭った! ルシアンは呪われている!』と触れ回ったのが逆効果だったのです! 人々は『か弱い令嬢一人に怯えるとは情けない』と殿下を笑い、逆に堂々としていた(らしい)お嬢様を評価したのです!」


「まって。堂々としていたわけじゃないわ。ただ耳を塞いでいただけよ」


「それが『聞く価値なし』という究極の侮辱(ポーズ)として解釈されたのです!」


「誤解だわ! 盛大な誤解よ!」


ルシアンは頭を抱えた。


彼女の望みは『忘れ去られること』だ。


「あの人はもう過去の人」「森でひっそり野垂れ死んだらしい」と思われてこそ、真の自由が得られるのだ。


それなのに、なぜか『孤高の聖女』みたいな扱いになっている。これでは、また面倒な連中が様子を見に来てしまうではないか。


「……迷惑だわ」


「なぜですか! これでお父上も鼻が高いと仰っておりましたぞ! 『やはり我が娘だ、無言の圧力に関しては天才的だ』と!」


「褒められていない気がします……」


その時、背後からスッと手が伸び、落ちた新聞を拾い上げた。


キースだ。


彼は真剣な眼差しで記事を読み込み、フム、と頷いた。


「……悪くない」


「どこがですか! 私の隠遁計画が台無しです!」


「……真実は、伝わる」


キースは記事の隅にある、小さなコラムを指差した。


そこには『森の守護者? 令嬢を守る謎の影』という見出しがあった。


『目撃者(御者)によると、ルシアン嬢の背後には、黒き衣を纏った大男が立っていたという。彼は一言も発さず、ただ殿下たちを睨みつけただけで退散させた。あれは森の精霊か、あるいはルシアン嬢の忠誠なる守護騎士か――』


「……俺だ」


「知っています。貴方以外に誰がいるのですか」


キースは満足げに口角を上げた。


「……守護騎士。……いい響きだ」


「喜んでいる場合ですか! 貴方の存在までバレかけていますよ!」


「……問題ない」


キースは新聞を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。


「……俺の正体は、誰も知らない。……ただの『噂』として流布させておいた」


「流布させた?」


ルシアンはハッとした。


「まさか、この記事……貴方が?」


キースは答えなかった。


だが、彼が時折、森から姿を消していたことを思い出す。


まさか王都に行って、情報操作をしていたのではあるまいか。


アランたちに有利な噂が流れるのを防ぐために、先手を打って『ルシアン称賛記事』を書かせた?


「……キースさん」


「……なんだ」


「貴方、私のために……?」


キースはそっぽを向いた。


「……静かな生活を守るには、世論を味方につけるのが一番だ」


「それは……そうですけれど」


「……『気高い令嬢』というイメージが定着すれば、軽々しく手出しできなくなる。……アランのような馬鹿は特にな」


論理的だ。


確かに、「惨めな追放令嬢」だと思われれば、面白がって揶揄いに来る輩がいるかもしれない。


だが、「手出し無用の孤高の存在」になれば、遠巻きに崇められるだけで済む。


(……考えてくれているのね)


ルシアンは溜息をつきつつも、胸の奥が少し温かくなった。


この不器用な隣人は、彼なりに彼女の『おひとり様』を守ろうと必死なのだ。


方向性は少々おかしいが。


「……ありがとうございます。でも、これ以上目立つのは困りますから、ほどほどにお願いしますね」


「……善処する」


「お嬢様、このハンスも微力ながら協力しますぞ!」


ハンスが割り込む。


「街で『お嬢様は森で仙人のような修行をしている』と広めておきます!」


「やめてハンス。仙人は嫌」


「では『森の魔女』で!」


「もっと嫌です」


そんなやり取りをしていると、キースが持ってきた籠から林檎を一つ取り出し、ハンスに投げ渡した。


「……帰れ」


「へ?」


「……日が暮れる。森は危険だ」


「あ、はい! そうですね! 長居は無用ですね!」


ハンスはキースの無言の圧力(早く二人きりにさせろというオーラ)を敏感に察知した。


「ではお嬢様、物資は玄関に置いておきます! また来月!」


「ええ、ありがとうハンス。次は静かに来てね」


ハンスは嵐のように去っていった。


再び、静寂が戻ってくる。


ルシアンは新聞の束を、やはり燃料にするために暖炉のそばに積んだ。


「……有名になるのも、楽じゃないわね」


「……有名税だ」


キースが再びお茶を注いでくれる。


「……だが、ここには誰も来させない。……俺がいる限り」


その言葉は、どんな騎士の誓いよりも頼もしく響いた。


ルシアンは紅茶を一口飲む。


「頼りにしていますわ、守護騎士様(ナイト)」


からかうように言うと、キースが初めて、あからさまに動揺した。


ガチャン。


ティーポットの蓋を落としたのだ。


「……っ」


彼は慌てて拾い上げ、耳まで赤くして背を向けた。


「……修理してくる」


「壊れていませんよ?」


「……心の修理だ」


意味不明なことを言い残し、彼は屋根の上へと逃亡した。


ルシアンは、くすりと笑った。


(意外と初心なのね)


王都の噂など、どうでもよくなった。


どんなに誤解されようと、ここでこうして静かに笑い合える(片方は無言だが)相手がいれば、それでいい。


勘違いされた『悪役令嬢の沈黙』。


その真実は、ただ『大切な人との時間を邪魔されたくない』という、ささやかな我儘へと変わりつつあった。


だが、運命はそう簡単に彼女を隠居させてはくれない。


この噂を聞きつけ、次にやってくるのは『好奇心』という名の野次馬たちだった。


ルシアンの安息の日々は、まだまだ遠い。

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