第4話
小鳥のさえずりで目が覚める――なんて優雅な朝は、ルシアンの辞書にはない。
彼女を目覚めさせたのは、地響きのような金属音だった。
ガコン、ガコン、ガコン。
規則的で、重厚で、二度寝を断固として拒否する騒音。
「……なんなの……」
ルシアンは布団(昨日持参したトラベル用の寝袋)から這い出し、ボサボサの髪のまま窓を開けた。
「!」
眼下にある庭。
そこに、昨日の黒ずくめの男――キースがいた。
彼は井戸のポンプと格闘していた。
錆びついて化石のようだったポンプが、彼の手にかかるとまるで新品の玩具のようにスムーズに動いている。
ガコン、ガコン。
ポンプのハンドルが上下するたびに、彼の腕の筋肉が盛り上がるのが、二階からでも見て取れた。
「……本当に来てる」
ルシアンは愕然とした。
「しかも、朝の五時に?」
常識という概念が欠落しているのだろうか。
ルシアンは急いで着替え、階段を駆け下りた。
勢いよく玄関の扉を開ける。
「おはようございます! そしてさようなら!」
ルシアンは先制攻撃を仕掛けた。
キースの手が止まる。
彼はゆっくりと振り返り、朝日を背に受けて眩しそうに目を細めた。
「…………」
「無視しないでください。今すぐ作業を中止して、お帰りください。貴方のおかげで目覚め最悪です」
キースは無表情のまま、ポンプのハンドルを指差した。
「……水」
「はい?」
「出るぞ」
彼はハンドルを大きく押し下げた。
ジャバァアアアッ!
錆色の濁流ではなく、透き通った冷たい地下水が、勢いよく吐き出された。
水しぶきが上がり、朝の光を受けてキラキラと輝く。
「……っ!」
ルシアンは言葉を失った。
水。
ライフラインの要。
昨日、自分で試したときはピクリとも動かなかったあの頑固なポンプが、こうもあっさりと。
「……飲める」
キースが懐からコップを取り出し(なぜ持っている?)、水を汲んでルシアンに差し出した。
「毒見済みだ」
「毒見って、貴方……」
ルシアンは恐る恐るコップを受け取り、一口飲んだ。
冷たい。
そして甘い。
井戸水特有の雑味もなく、喉を潤す最高の水だった。
(……悔しい)
ルシアンは唇を噛んだ。
(悔しいけど、美味しい。そして便利すぎる)
水汲みのために川まで往復する労働(片道二十分)を覚悟していただけに、この恩恵は計り知れない。
「……ありがとうございます。これでお茶が飲めます」
ルシアンは素直に礼を言った。
「では、作業完了ですね。お疲れ様でした。出口はあちらです」
彼女は再び森の入り口を指差した。
しかし、キースは動かない。
彼はコップを受け取ると、今度は視線を屋敷の屋根に向けた。
「……瓦」
「は?」
「半分ない」
「知っています。採光性が良くて気に入っています」
「雨が降る」
「傘をさして寝ます」
「……風邪を引く」
会話のキャッチボールが成立していない。
キースはドッジボールのように正論を投げつけてくる。
「心配無用です。私は頑丈さが取り柄ですから」
「……俺が困る」
「なぜ貴方が困るのですか!?」
「…………」
キースは黙り込んだ。
理由を言うつもりはないらしい。
彼はスタスタと屋敷の壁際に歩み寄ると、立て掛けてあった梯子(どこから持ってきた?)に手をかけた。
「待って! 何をする気ですか!」
「……修繕」
「頼んでいません!」
「……サービスだ」
「何の!? どの業者のサービスですか!?」
キースは聞く耳を持たず、軽々と梯子を登っていく。
その背中は「俺に言葉は不要だ、背中で語る」と言わんばかりの頑固さに満ちている。
ルシアンは地団駄を踏んだ。
「もう! 勝手にしなさい! 怪我しても知りませんからね!」
捨て台詞を吐いて、屋敷の中に戻る。
だが、ルシアンは気づいてしまった。
(……朝ごはん、どうしよう)
昨日キースが置いていったパンは、夜のうちに食べてしまった。
手持ちの食料は干し肉とビスケットくらいしかない。
優雅な別荘ライフ初日の朝食が、乾パンと水というのはあまりにも悲しい。
キッチンに立ち、お湯を沸かそうとしたその時。
コン、コン。
窓ガラス(昨日キースが直した部分)が叩かれた。
見ると、キースが窓枠に腰掛けている。
梯子を使えば二階だけでなく、一階の窓にも容易にアクセスできるらしい。
「……な、なんですか!」
ルシアンが警戒すると、キースは無言でバスケットを差し出した。
「……?」
受け取って中を見る。
そこには、新鮮な卵、スモークハム、そして採れたての野菜、極めつけに瓶に入ったミルクが入っていた。
「……これ」
「……朝飯」
「どこで調達を?」
「……森」
「森にハムが生えているわけありません!」
「……俺の家から持ってきた」
「だから、隣人というのは本当なのですか……」
ルシアンは脱力した。
この男、準備が良すぎる。
まるでルシアンが何に困るか、すべて先読みしているかのようだ。
「……お代は?」
「……いらん」
「タダより高いものはありません。労働で返しますか? 草むしりくらいなら手伝いますけど」
キースは首を横に振った。
そして、ルシアンの顔をじっと見つめ、ポツリと言った。
「……笑え」
「はい?」
「……昨日の夜会。あんな作り笑いじゃなく、本気で」
「見ていたのですか!? あの婚約破棄の現場を!?」
ルシアンは顔を赤くした。
あの一世一代の『歓喜のドヤ顔』を見られていたとは。
「……見事だった」
キースは親指を立てた。
サムズアップ。
無表情だが、その瞳は称賛の色を帯びている。
「あんなに清々しい婚約破棄顔は、初めて見た。……感動した」
「褒め言葉として受け取っていいのか悩みますわね……」
「……だから、礼だ。これ(食料)も、これ(修繕)も。……お前の『自由』への敬意だ」
キースはそう言うと、再び梯子を登っていった。
屋根の上から、カンカンと瓦を直す音が聞こえ始める。
ルシアンはバスケットを抱えたまま、呆然と立ち尽くした。
(……変な人)
悪役令嬢と呼ばれ、遠巻きにされるか、あるいは利用しようと近づいてくる人間ばかりだった。
こんな風に、ただ『そこにいること』を肯定し、あまつさえ『自由』を祝福してくれる人間など、今までいただろうか。
(……まあ、いいわ)
ルシアンはバスケットから卵を取り出した。
(利用できるものは利用する。それが悪役令嬢の嗜みよ。屋根が直って、ご飯が食べられるなら、文句はないわ)
それに、と彼女は思う。
あのカンカンという音。
不思議と、うるさくはなかった。
むしろ、独りぼっちの広い屋敷に、もう一つ鼓動があるような――そんな安心感すら覚えてしまう自分が、少しだけ悔しかった。
「……卵焼き、作ってあげてもいいかしら。余ればの話だけど」
ルシアンは小さく呟き、キッチンに向かった。
屋根の上では、キースが作業の手を止め、耳を澄ませていた。
地獄耳の彼は、その呟きを聞き逃さなかった。
無表情のまま、空に向かってガッツポーズをする。
(……勝った)
何に勝ったのかは不明だが、彼の中では大きな勝利だったらしい。
こうして、奇妙な同居生活(?)二日目は、焼きたての卵とハムの香りに包まれて始まったのだった。
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