第5話
平和とは、かくも得難いものであったか。
ルシアンは、修繕されたテラス(キース作)で、湯気の立つ紅茶(キースが汲んだ水を使用)を啜りながら、しみじみと思っていた。
別荘生活三日目。
廃屋同然だった屋敷は、謎の隣人キースの超人的なDIY能力によって、急速に「住める城」へと進化していた。
雨漏りは止まり、隙間風は消え、床は磨き上げられ、庭の雑草すら綺麗に刈り取られている。
「……快適すぎる」
ルシアンは独り言ちた。
本来なら、不便な生活の中で孤独を噛み締める予定だったのだが、結果的に「至れり尽くせりの孤独」という、貴族でも味わえないような贅沢な時間を過ごしている。
キースは相変わらず神出鬼没だ。
朝食を置いていき、昼間はどこかで作業をし(音は最小限)、夕方には薪を割って去っていく。
会話は一日三言程度。
『飯』『直した』『邪魔だ(作業の)』。
これだけだ。
ルシアンにとって、彼はもはや空気清浄機や全自動掃除機と同じカテゴリに分類されつつあった。つまり、いてくれると助かるが、情緒的な交流は不要な存在だ。
(このまま、世界から忘れ去られたい……)
ルシアンがページをめくろうとした、その時だった。
バササササッ!!
空から何かが降ってきた。
「きゃっ!?」
ルシアンは反射的に本で頭を守る。
テーブルの上に降り立ったのは、一羽の猛禽類――王家の伝書鷹だった。
その足には、金色の封蝋が施された筒が括り付けられている。
鷹は「ギョエーッ!」と、静寂を切り裂くような汚い声を上げた。
「……静かにしなさい」
ルシアンは眉間に皺を寄せた。
王家の鷹。
嫌な予感しかしない。
筒から手紙を取り出すと、そこには見覚えのある、無駄に装飾の多い筆跡で『愛しき迷える子羊、ルシアンへ』と書かれていた。
「…………」
ルシアンの体温が二度は下がった。
差出人は見るまでもない。
アラン・クリフォード第一王子だ。
(読まなくていいわよね? どうせろくなこと書いてないし)
ルシアンはそのまま筒に戻そうとしたが、鷹が鋭い嘴で「読め」とばかりにつついてくる。
「……わかったわよ。読めばいいんでしょう、読めば」
彼女は渋々、手紙を開いた。
瞬間、強烈な薔薇の香水の匂いが漂ってきた。
「くさっ……!」
森の清浄な空気が、人工的な香りで汚染される。
ルシアンはハンカチで鼻を押さえながら、文面に目を通した。
『親愛なるルシアン。
君が泣きながら王都を去ったと聞いて、私の心は痛んでいる(嘘ではないぞ!)。
あのボロ屋敷で、君は今頃、寒さと孤独に震えていることだろう。
夜の闇に怯え、私の温もりを恋しく思っている姿が目に浮かぶようだ。
だが、安心してほしい。私は寛大だ。
もし君が、今すぐ王都に戻り、ミナに土下座をして謝罪し、私の靴にキスをして許しを乞うならば、側室の末席くらいには加えてやらなくもない。
感謝するがいい。これはラストチャンスだ。
さあ、急いで返事を書け。そして愛の言葉を綴るのだ!
追伸:ミナが「お姉様が可哀想だから、私のお古のドレスを恵んであげたい」と言っている。彼女の慈悲深さに涙するがいい。
未来の王、アランより』
読み終わるのに要した時間は三十秒。
ルシアンの感想は一文字だった。
「……薪(まき)」
それ以外の用途が思いつかない。
内容の全てが、ルシアンの神経を逆撫でするように構成されている。
孤独に震えている? いいえ、快適です。
温もりが恋しい? キースが設置した最新式の薪ストーブの方が優秀です。
戻ってこい? 死んでも御免です。
ルシアンは立ち上がると、リビングの暖炉へと向かった。
そこには、ちょうど火が消えかかっている熾火(おきび)があった。
「ちょうどよかったわ。少し肌寒くなってきたところだったの」
ルシアンは手紙を丸めた。
躊躇なく。
慈悲もなく。
そして、ポイッと暖炉の中へ放り込んだ。
ボッ。
香水の染み込んだ高級紙は、実によく燃えた。
薔薇の香りが焦げ臭い匂いに変わり、アランの綴った愛(自己愛)の言葉が灰へと変わっていく。
「……ふぅ。これで少しは暖まるかしら」
ルシアンが手を翳していると、背後で気配がした。
「……!」
いつものことながら、音もなく現れたキースが立っていた。
彼は暖炉の中の燃えカスと、ルシアンの顔を交互に見ている。
「……手紙か」
「ええ。不要なゴミが届いたので、燃料としてリサイクルしました」
「……王家の紋章が見えたが」
「見間違いではありませんか? あれはただの、燃えるゴミです」
ルシアンは真顔で言い切った。
国家反逆罪スレスレの発言だが、この森の中ではルシアンが法だ。
キースは「ふっ」と短く息を吐いた。
笑ったのだ。
「……良い判断だ」
彼はそう言うと、懐から分厚い封筒を取り出した。
「……ついでだ。これも燃やせ」
「え? それは?」
「……俺宛の、見合い写真だ」
「ええっ!?」
ルシアンは驚愕した。
「貴方、見合いの話があるのですか? しかも、こんなに大量に?」
封筒の厚みからして、十人や二十人ではない。
「……うるさい親戚が送ってくる。……迷惑だ」
キースは心底嫌そうな顔をした。
「俺は、興味がない」
「興味がないって、結婚にですか?」
「……他人にだ」
彼はルシアンと同じ人種だった。
キースは封筒ごと、暖炉に投げ込んだ。
ボオオオオオッ!!
アランの手紙とは比較にならないほどの火力で、見合い写真の束が炎上する。
「……あったかいな」
「……ええ、そうですね」
二人は並んで、燃え盛る炎を見つめた。
元婚約者の戯言と、無数の令嬢たちの希望が、物理的な熱エネルギーへと変換されていく。
シュールな光景だった。
しかし、不思議な連帯感がそこにはあった。
「あの、キースさん」
「……ん」
「貴方も、一人が好きなのですか?」
ルシアンが問いかけると、キースは炎を見つめたまま、静かに頷いた。
「……煩わしいのは嫌いだ。言葉は誤解を生む。人は裏切る。……静寂だけが、嘘をつかない」
「……名言ですね」
ルシアンは深く同意した。
「私もそうです。言葉は騒音でしかない。沈黙こそが至高のコミュニケーションです」
「……ああ」
キースが視線をルシアンに移す。
その瞳は、やはり静かだった。
「……だが」
「はい?」
「……お前との沈黙は、悪くない」
「…………っ」
ルシアンは言葉に詰まった。
それは、彼女が昨日感じたことと同じだったからだ。
彼がそばにいても、息苦しくない。
彼が立てる音は、不快ではない。
むしろ、彼がいることで、静寂がより深くなるような気がする。
(な、なによ……。調子が狂うわ)
ルシアンが顔を赤らめて俯いていると、窓の外から再び「ギョエーッ!」という鳴き声が聞こえた。
あの鷹だ。
返事を待って、まだ待機していたらしい。
「……しつこい鳥だ」
キースが低い声で呟く。
「追い払いましょうか。シッシッ、とやれば帰るかしら」
「……貸せ」
キースは窓を開けると、鷹に向かって手を伸ばした。
鷹は鋭い爪で威嚇しようとしたが、キースが放った『殺気』――のような何かを感じ取り、ピタリと動きを止めた。
キースは鷹の足の筒に、暖炉の底から拾った『灰』を詰め込んだ。
アランの手紙の成れの果てだ。
「……これを、持って行け」
短く命じて、鷹を空へ放り投げる。
鷹は恐怖に駆られたように、一目散に王都の方角へと飛び去っていった。
「……あれで、通じるかしら」
ルシアンが心配すると、キースはニヤリと笑った(ような気がした)。
「……『返事は灰になった』。つまり『消え失せろ』という意味だ。……伝わる」
「貴方、意外と過激ですね……」
「……お前の敵は、俺の敵だ」
「え?」
「……なんでもない」
キースはそそくさと窓を閉め、また無表情に戻ってしまった。
「夕飯は、シチューだ」
「あ、はい。……って、また作ってくれるんですか?」
「……作りすぎた」
嘘だ。
一人暮らしでシチューを作りすぎるなんて、そんなベタな言い訳があるか。
だが、ルシアンは追求しなかった。
暖炉の火は暖かく、外は静かで、そして今夜は美味しいシチューが待っている。
アランの手紙がもたらした騒音は、結果として二人の距離を(物理的にも精神的にも)少しだけ縮める薪となったのだった。
*
一方、王都の王宮。
アラン王子の元に、鷹が帰還した。
「おお! 帰ってきたか! さぞかし涙で濡れた手紙が入っていることだろう!」
アランは満面の笑みで筒を開け、中身を手のひらにぶちまけた。
バサッ。
出てきたのは、黒い灰と、燃え残った紙切れ一枚。
そこには、『薪』とルシアンが呟いた時の想いがこもった、焦げた匂いだけが残っていた。
「…………は?」
アランの顔が引きつる。
「こ、これは……なんという……情熱的な……!!」
「殿下?」
「見ろミナ! 彼女は感動のあまり、言葉にならず、身を焦がすような想いを『灰』に託したのだ! つまり、彼女の心は私への愛で燃え尽きているということだ!」
「ええー……ポジティブすぎません?」
ミナですら引いていた。
「よし、次は直接迎えに行ってやろう! 待っていろルシアン! この私が、その激しい愛を受け止めてやる!」
勘違いは、時に山火事のように燃え広がる。
森の平穏が本当の意味で崩壊するのは、もう少し先の話である。
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