第3話

カン。カン。カン。


リズミカルな音が、廃屋の静寂を一定の間隔で切り裂いていく。


ルシアンは腕組みをして、目の前の光景を凝視していた。


場所は二階の主寝室。


目の前にいるのは、黒ずくめの不審者。


彼はルシアンの視線など意に介さず、黙々と窓枠の歪みを矯正している。


(……なんなの、この状況)


ルシアンは内心で盛大にツッコミを入れた。


普通、不法侵入者が見つかったら逃げるものではないか?


あるいは、居直って襲いかかってくるか。


しかしこの男は、そのどちらでもない。


ただひたすらに、職人のような手付きで、他人の家の修繕を行っているのだ。


ルシアンは咳払いを一つした。


「コホン」


「…………」


反応なし。


男は振り返りもしない。


まるでルシアンが空気か、あるいは壁のシミであるかのような扱いだ。


ルシアンのこめかみに、青筋が浮かぶ。


(無視? この私を? 王都で『氷の悪役令嬢』と恐れられた私を?)


もっとも、彼女が恐れられていたのは無口で無表情だったからだが、自分から無視するのは良くても、他人に無視されるのは勝手が違う。


ルシアンは一歩前に出た。


「あの」


「…………」


「もしもし」


「…………」


「そこの、黒い塊」


ピタリ、と男の手が止まった。


ようやく通じたらしい。


男はゆっくりと振り返る。


その顔を見て、ルシアンは息を呑んだ。


(……綺麗)


整いすぎている。


切れ長の瞳は夜の湖のように深く、鼻筋は彫刻のように通り、引き結ばれた唇は意志の強さを物語っている。


無精髭ひとつなく、清潔感が漂っているのが逆に不気味だ。


こんな美形の不審者がいてたまるか。


男はルシアンをじっと見つめ、そして短く口を開いた。


「……なんだ」


重低音。


腹の底に響くような、良い声だった。


しかし、その態度はあまりにも尊大だ。


ルシアンは努めて冷静に、貴族令嬢としての仮面を被って問いかける。


「『なんだ』ではありませんわ。ここは私の別荘です。貴方こそ、どなたですか?」


男は数秒ほど考え込むような素振りを見せた。


そして、ポツリと言った。


「……キース」


「キース?」


「隣人だ」


「隣人……?」


ルシアンは眉をひそめた。


この別荘の『隣』と言えば、それはもう公爵領の境界線の外。


国境を守る辺境伯領のはずだ。


「辺境の民、ということですの? それにしても、なぜ隣人が勝手に人の家に入り込み、あまつさえ修理などしているのですか」


キースと名乗った男は、視線を天井に向けた。


「……雨漏り」


「は?」


「直さないと、床が腐る」


「それは……そうかもしれませんけど」


「住むなら、直せ」


言葉足らずにも程がある。


要約すると『お前がここに住むつもりなら、雨漏りを直さないと生活できないから、俺が直してやっている』ということらしい。


(なぜ? 親切心? それとも新手の詐欺?)


ルシアンは警戒レベルを引き上げた。


世の中に、無償の愛など存在しない。


あるとすれば、それは下心か、あるいは罠だ。


「ご親切にどうも。ですが、結構です」


ルシアンは扉を指差した。


「私はこのボロボロの状態で構わないのです。雨漏りもまた風流。床が腐れば、避けて歩きます。ですので、お引き取りください」


「…………」


キースは無言でルシアンを見つめる。


その瞳には、何らかの感情が渦巻いているように見えたが、ルシアンには読み取れない。


呆れか、憐れみか。


やがて、彼はふいと視線を逸らし、再び金槌を構えた。


カン、カン、カン。


「……ちょっと!」


ルシアンは声を荒げた。


「聞いていますの!? 帰ってくださいと言っているのです!」


「…………」


「不法侵入で衛兵を呼びますわよ!」


「……ここは圏外だ」


「物理的に呼びに行きます!」


「……遠いぞ」


「うぐっ……」


正論だ。


最寄りの詰め所まで、馬車で半日はかかる。


しかも馬車のハンスはもう帰してしまった。


つまり、ルシアンにはこの大男を追い出す物理的手段がない。


(くっ……! なんてこと! 私の静寂ライフ初日が、こんな筋肉質のノイズに邪魔されるなんて!)


ルシアンはギリギリと歯噛みする。


しかし、キースの作業は驚くほど手際が良かった。


見る見るうちに窓枠が直り、隙間風が入ってこなくなる。


彼は次に、懐から板切れと釘を取り出し、床の穴を塞ぎ始めた。


その動きには一切の無駄がない。


ため息が出るほど完璧な仕事ぶりだ。


(……悔しいけれど、助かるのは事実ね)


ルシアンは合理的な性格である。


彼が危害を加えてくる様子はなく、むしろ住環境を向上させてくれている。


ならば、作業が終わるまで放置するのが最善手ではないか?


「……わかりました」


ルシアンは折れた。


「修理が終わったら、速やかに出ていってくださいね。お茶もお代も出しませんから」


キースは背中を向けたまま、小さく頷いた。


(よし。これで交渉成立)


ルシアンは彼を無視して、荷解きを始めることにした。


一階のリビングへ降りる。


埃まみれのソファにシーツをかけ、持参した本を積み上げる。


これだけで、殺風景な廃屋が『私の城』へと変わっていく。


(ふふ……いいわ。この静けさ)


二階からは、時折微かにトントンという音が聞こえるだけ。


それも心地よいリズムで、決して不快ではない。


ルシアンは本を手に取り、読みふけった。


時間を忘れた。


気づけば、窓の外は夕闇に包まれている。


「……あら、もうこんな時間」


ルシアンは伸びをした。


さすがに二階の彼はもう帰っただろうか。


静かすぎる。


確認しに行こうと立ち上がった時、背後で気配がした。


「……!」


振り返ると、そこにキースが立っていた。


いつの間に階段を降りてきたのか、足音が全くしなかった。


「……終わったのか?」


「ひゃっ!?」


ルシアンは思わず変な声を出した。


「お、脅かさないでください! 気配を消すのが趣味なのですか!?」


「……元々だ」


キースは無表情のまま、手に持っていた籠をテーブルに置いた。


中には、瑞々しい木の実と、焼きたてのような温かいパン、そして干し肉が入っている。


「……これは?」


「食え」


「え?」


「腹、減ってるだろ」


図星だった。


昼に到着してから、興奮のあまり何も食べていなかった。


ルシアンのお腹が、タイミング悪くグゥと鳴る。


「…………」


「…………」


恥ずかしい沈黙。


キースの口元が、ほんのわずかに――気のせいかもしれないが――緩んだように見えた。


「毒は入ってない」


「疑っていませんけれど……。なぜ、ここまでしてくれるのですか?」


ルシアンはどうしてもそれが解せなかった。


見ず知らずの他人に、家を直し、食事まで提供する。


親切の域を超えている。


「貴方、もしかして……私のストーカー?」


冗談めかして言ったつもりだった。


だが、キースの反応は予想外だった。


彼はピクリと肩を震わせ、視線を泳がせたのだ。


「…………」


「えっ」


「……違う」


否定までの間が長かった。


「……たまたま、通りがかった。……空腹の人間を放っておくのは、騎士の恥だ」


「騎士? 貴方、騎士なのですか?」


「……元、だ」


キースはそれ以上語ることを拒否するように、くるりと背を向けた。


「明日は、井戸を直す」


「え? 明日?」


「水が出ないと、死ぬぞ」


「いえ、来なくていいです! 自分でなんとかします!」


「……無理だ」


キースは断言した。


「あの井戸のポンプは錆びついている。お前の細腕では動かせない」


「見ていたのですか!?」


「……帰る」


質問には答えず、キースは玄関へと向かう。


その足取りは迷いがなく、まるで自分の家のように慣れていた。


「待ってください! お礼くらい……!」


ルシアンが呼び止めるが、彼は手をひらりと振っただけ。


扉が開き、夜の闇へとその背中が消えていく。


バタン、と扉が閉まる音だけが残された。


リビングには、パンの香ばしい匂いと、ルシアン一人が取り残された。


「……なんなの、あの人」


ルシアンはテーブルの上の籠を見つめた。


パンはまだ温かい。


一口ちぎって口に入れると、驚くほど美味しかった。


上質な小麦の味。


辺境の森で、こんなものが手に入るのだろうか。


(キース……。無口で、不愛想で、でも仕事は完璧で……)


ルシアンは複雑な気分だった。


念願の『おひとり様ライフ』は達成できた。


誰もいない、静かな夜。


しかし、その静寂の中に、あの男が立てていった小さな音の余韻が残っているような気がした。


「……まあ、いいわ。明日追い返せばいいことよ」


ルシアンはそう自分に言い聞かせ、パンをもう一口食べた。


だが彼女はまだ知らない。


彼が言った『隣人』という言葉の意味を。


そして彼が、この森の全てを支配する『沈黙の辺境伯』であり、長年ルシアンを影から見守り続けてきた崇拝者であることを。


明日の朝、彼が約束通りやってきて、今度は勝手に庭の草むしりを始めている未来が確定していることも、まだ知る由もなかった。

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