第2話

夜明け前。


世界がまだ薄墨色の静寂に包まれている時間帯。


一台の馬車が、ヴァイオレット公爵邸の裏門からひっそりと滑り出した。


見送りはいない。


なぜなら、ルシアンが誰にも気付かれないよう、忍び足で屋敷を抜け出してきたからだ。


御者台に座るのは、古株の御者であるハンスだけ。


彼は手綱を握りながら、何度もハンカチで目元を拭っていた。


「……ううっ、お嬢様。本当によろしいのですか? こんな、夜逃げのような真似をして……」


馬車の中から、ルシアンの冷静な(しかし内心はウキウキした)声が響く。


「ハンス、言葉を慎みなさい。夜逃げではありません。『戦略的撤退』兼『早期リタイア生活の開始』です」


「ですが、公爵様にも挨拶せずに出立だなんて……。これではまるで、罪人の流刑ではありませんか」


「挨拶などすれば、お父様のことですもの。『やはり護衛をつけよう』だの『侍女を連れて行け』だの、余計なオプションをつけてくるに決まっています」


ルシアンは窓のカーテンを少しだけ開け、遠ざかる王都の街並みを眺めた。


まだ眠っている街。


騒音のない街。


(ああ、なんて美しいのかしら)


彼女は深く息を吸い込んだ。


アラン王子の高笑いも、ミナの猫なで声も、夜会の不協和音も、すべてが過去のものとなりつつある。


「ハンス、馬を急がせて。太陽が昇りきって、人々が活動を始める前に、人里を離れたいのです」


「お嬢様……。そのように急いで王都を離れたいほど、お辛いのですね……」


ハンスは盛大な勘違いをして、鼻をすする音を大きくした。


「アラン殿下にあのような恥をかかされ、社交界の噂になるのが耐えられないのでしょう……? 分かります、分かりますぞ。私がもっと若ければ、殿下に決闘を申し込んでいたものを!」


「……ハンス、お願いですから静かに運転してください。あなたの鼻をすする音が、今の私にとって最大の騒音です」


「申し訳ございませんっ! このハンス、涙と共に音も飲み込みます!」


「……ええ、そうしてください」


ルシアンは窓を閉め、シートに深く身を沈めた。


(さあ、目指すは北の果て。地図にも載っていないような森の奥深く)


彼女が向かうのは、ヴァイオレット家が所有する領地の中でも、最も辺鄙な場所にある『旧別荘』だ。


かつては狩猟用の館として使われていたらしいが、十年以上放置され、今では地元民ですら近寄らない廃墟と化しているという。


(最高じゃない)


ルシアンは口元を緩ませた。


幽霊屋敷? 大歓迎だ。


幽霊は喋らないし、物理的な干渉もしてこない。


人間よりも遥かに良識的なルームメイトになり得るだろう。



馬車は半日ほど走り続け、やがて舗装された街道を外れた。


鬱蒼とした森の中へ続く、獣道のような砂利道を進んでいく。


木々の枝が馬車の屋根を擦り、ガサガサという音を立てる。


鳥の鳴き声すら聞こえない、深い緑の闇。


一般の令嬢ならば恐怖で震え上がるような光景だが、ルシアンにとっては極上の癒やし空間だった。


「お、お嬢様……本当にこの道で合っているのでしょうか? 先ほどから、背筋がゾクゾクするのですが……」


ハンスの声が震えている。


「合っていますよ。お父様の書斎から盗ん……拝借した地図によれば、この一本道の突き当たりです」


「く、熊とか出ませんかね?」


「出たら出たで構いません。熊は言葉を喋りませんから」


「そういう問題ではございません!?」


そんな不毛な会話を交わしているうちに、視界が開けた。


「……あ、ありました。あれですね」


ハンスが馬車を止める。


ルシアンは期待に胸を膨らませ、馬車の扉を開けて飛び降りた。


「到着しましたのね! 私の楽園――」


言葉が途切れる。


目の前にそびえ立っていたのは、想像を絶する『物件』だった。


石造りの二階建て屋敷。


屋根瓦は半分以上剥がれ落ち、壁には巨大な蔦が絡まりつき、窓ガラスは割れ、玄関の扉は斜めに傾いている。


庭は雑草が背丈ほどまで伸び、どこからか「ヒュオオオ……」という風切り音が聞こえてくる。


まさに、絵に描いたようなホラーハウス。


「……ひ、ひぃぃッ!!」


ハンスが短い悲鳴を上げる。


「お、お嬢様! 無理です! これは無理です! 人が住める場所ではありません! 今すぐ引き返しましょう!」


しかし、ルシアンの反応は違った。


彼女は頬を紅潮させ、うっとりとした瞳でその廃墟を見上げていた。


「……素晴らしいわ」


「はい!?」


「見て、ハンス。あの蜘蛛の巣。あれほど見事な幾何学模様、芸術作品だわ。それにあの傾いた扉。誰の侵入も拒むという、強い意志を感じる」


「お嬢様、正気ですか!? あれはただの老朽化です!」


「そして何より……」


ルシアンは両手を広げ、周囲の空気を抱きしめるようにした。


「人の気配が、微塵もない」


「そりゃあそうでしょうよ! こんな化け物屋敷に住む物好きはいません!」


「ここに決めました。いえ、ここが私の終の棲家です」


ルシアンは荷台から自分のトランクを下ろすと、地面にドンと置いた。


「ハンス、あなたは帰りなさい。長い道中、ご苦労様でした」


「お、置いていけるわけがありません! こんな場所に、お嬢様をお一人にするなんて!」


「命令です」


ルシアンの声色が、スッと低くなる。


王城の夜会で見せた、あの『氷の悪役令嬢』のトーンだ。


「私は一人になりたいのです。誰の目も、誰の声も届かない場所で、静かに朽ちていきたいのです(比喩ではなく願望)。……分かってくれますね?」


「お嬢様……」


ハンスは涙ぐみ、そして諦めたように肩を落とした。


「……分かりました。ですが、一ヶ月に一度、物資を届けに来ます。それだけは譲れません」


「……分かりました。ただし、玄関前に置いてすぐに帰ること。インターホン(鐘)は鳴らさないでください。私が驚くので」


「どこまでも頑なですね……。では、どうかご無事で!」


ハンスは後ろ髪を引かれる思いで馬車を回頭させ、逃げるように森の奥へと去っていった。


遠ざかる馬蹄の音が完全に聞こえなくなるまで、ルシアンはその場に立ち尽くしていた。


そして。


完全なる静寂が訪れた。


「…………ふふ」


笑みがこぼれる。


「あはははは! やった! やったわ! 一人よ! 完全なる孤独よ!」


ルシアンは誰もいない荒れ放題の庭で、くるくると回った。


誰に見られる心配もない。


無表情を保つ必要もない。


彼女はトランクを引きずり、傾いた玄関の前までスキップで移動した。


「さあ、まずは現状確認ね。今日からここが、私の城(サンクチュアリ)――」


ギギギ……と不気味な音を立てて、扉を開ける。


中は薄暗く、埃の匂いが充満していた。


床板は腐りかけている場所もあるが、骨組みはしっかりしているようだ。


「掃除しがいがありそうね。……うん?」


ふと、ルシアンは違和感を覚えた。


廊下の奥。


埃が積もっているはずの床に、何かが引きずられたような跡がある。


いや、それだけではない。


階段の手すりが、一部分だけ妙に綺麗だ。


まるで、つい最近、誰かが触れたかのように。


(……動物?)


ルシアンは首を傾げた。


(狸か、狐か。……まあいいわ、彼らとなら共存できる)


彼女は気にせず、まずは寝室を確保しようと二階へ上がろうとした。


その時だ。


二階の窓の外。


割れたガラスの隙間から、何かが動くのが見えた。


鳥ではない。


もっと大きな――人影?


ルシアンは足を止めた。心臓が嫌なリズムで跳ねる。


(まさか、浮浪者? それとも山賊?)


もし人間がいるのなら、楽園計画は白紙撤回だ。


ルシアンは音を立てずに階段を上り、気配のする部屋へと近づいた。


一番奥の部屋。


かつての主寝室だろうか。


ドアは開け放たれている。


ルシアンは壁に背をつけ、そっと中の様子を伺った。


そこには。


「…………」


一人の男がいた。


黒髪に黒い瞳。


長身痩躯で、飾り気のない黒い服を身に纏っている。


彼は窓枠に腰掛け、壊れた屋根の隙間を、金槌と釘を使って黙々と修理していた。


カン、カン、カン。


リズミカルで、しかし必要最小限の音しか立てない、職人のような手付き。


(……誰?)


ルシアンは混乱した。


泥棒にしては堂々としているし、修理をしているという意味がわからない。


何より、彼の纏う空気が異常だった。


彼からもまた、自分と同じ匂い――『他者を拒絶する静寂』が漂っていたのだ。


男がふと、手を止める。


そしてゆっくりと、ルシアンが隠れているドアの方へと顔を向けた。


視線が交差する。


「…………」


「…………」


沈黙。


永遠にも感じる数秒間。


普通なら「誰だ!」と叫ぶ場面だろう。


あるいは女性なら悲鳴を上げる場面だ。


しかし、ルシアンは言葉を発しなかった。声を出せば、静寂が壊れるからだ。


そして男もまた、一言も発しなかった。


彼は無表情のまま、再び金槌を振り上げ、屋根の修理を再開したのだ。


カン、カン、カン。


(……無視、された?)


ルシアンはその場で瞬きをした。


追い出すでもなく、挨拶するでもなく、ただ『そこにいること』を自然現象として受け流されたような感覚。


(この人……私より、コミュニケーション能力が死んでいるのではなくて?)


幽霊屋敷に住み着いていたのは、幽霊よりもタチの悪い、無口すぎる不審者だった。


ルシアンの『完全なるおひとり様ライフ』に、早くも暗雲が立ち込めていた。

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