第8話
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滑らかな細い身体を抱き締める最中、ベッドサイドで時計が鳴った。どうしてこんな時間に? と訝っていると、すぐに彼女の口から答えは明かされる。
「聞いて」と彼女はミドリの頬を両手で包んだ。「わたくし今、十八歳になりましたの。身も心も大人になりましたのよ」
腕の中にいるのは資産家のご令嬢だ。
おめでとう、とキスをしてやると、彼女は幸福そうに目蓋を閉じた。
場面が切り替わる。
目の前にいるのは、太った子豚のようなだらしない身体をした中年男だ。
トイレで彼を待ち伏せし、ホテルの一室へ連れ込んだ。侵入のために使った清掃員の制服が、床に打ち捨てられている。
ああ、これは数時間前の記憶だ。
市長の重責を捨てた彼もまた、至極幸福そうに身を委ねていた。
場面が切り替わる。
ミドリの手は、赤茶色の髪を撫でていた。
鋭かった眼光は黒く濁り、反抗的だった口は「うん」か「はい」しか言わなくなった。
彼とは上手くやれていると思っていたが、所詮最後はこんなものだ。小鳥が餌を強請るようにパクパクと開く彼の口を、ミドリの舌で満たしてやる。相棒を壊してしまう罪悪感が、ミドリの胸を蝕んでいった。
その時、ようやく気がついた。
ああ、これは夢だ。
嫌な夢だな。早く覚めてほしい。
夢だと分かっていても、流れていく映像を自力では止めることはできなかった。
次にミドリがいたのは、アパートの一室だ。これはまた随分と懐かしい記憶だな、と他人事のようにミドリは思った。名も知らぬ女を、求められるがままに、激しく抱いていた。
突然部屋に男が入ってきた時にはさすがにぎょっとした。が、簡単なことだった。
男は一瞬、顔を真っ赤にしたものの、ミドリの目を睨んだのがいけなかった。途端に蕩けたような顔つきになり、肩から力が抜ける。来る? とひと言尋ねると、彼は自ら服を脱いだ。
別段、こういった行為は珍しいことでもなかった。里親の家から逃げ出したミドリにとっては、これが唯一の生きる術だったから。こうして道行く人に拾われては寄生し、食い繋いでいたのだ。
場面が切り替わる。
ああ、これで最後だな。とミドリは察した。こういう嫌な夢を見るとき、いつも決まって同じ場面で終わるのだ。
漏らしたような感触がして、ミドリは飛び起きた。紛らわしいが、起きたところでまだ夢の中だ。夢の中で夢を見ていた。
慌てて下着の状態を確かめると、その異常な光景に、ミドリは身動きが取れなくなった。自分が出したものがどう見ても普通の状態ではなかったのだ。これは本当に小便なのだろうか。いや、それ以外に何があるというのだろうか。無意味な問いを、何度も繰り返した。
どのくらい呆然としていたのか分からない。おかしな病気に罹ってしまったのだろうかと強烈な不安に襲われたことを覚えている。
ノックもせずに部屋に入ってきたのは、数ヶ月前にミドリを引き取った里母だった。
物心ついた時から、ミドリは施設をたらい回しにされていた。初めは必ず手厚く歓迎されるのだ。しかし皆、みるみるうちに壊れてしまう。児童はおろか、職員までもがミドリを奪い合って、運営が立ち行かなくなってしまうのだ。
だから、里親とミドリの三人だけの生活は、ミドリにとって平穏なものだった。ようやく安心できる暮らしを手に入れた。そう思っていた。それなのに、だ。
目が合った途端、里母がミドリに掴みかかってきた。何が起きたのか分からなかった。いつの間にか下半身の衣服が剥ぎ取られていた。里母はミドリに馬乗りになり、陰茎には未知の熱があった。
聞いたこともない里母の嬌声、欲望に満ちた濁った瞳、そこに映る自分の姿。全てが悍ましいものに思えて、指一本動かすことができなかった。
ミドリを産んで母は死に、ミドリの瞳の色を見て、父はミドリを捨てた。いつかどこかの施設の人がしていた、そんな噂話を思い出していた。
里母は、何度も、何度も、名前を口にした。
だが、その名前がなんだったか、もはや思い出すことはできない。生まれた時に与えられた、本当の名前だ。
何度も、何度も、狂ったように。
ミドリ、ミドリ。ミドリ! ちょっとミドリ!
◇
頬を強めに引っ叩くと、ようやくミドリは目蓋を上げた。ほにゃほにゃと寝言らしきものをしばらく口にしてから、はっと我に返って身体を起こす。
「何、ダイヤちゃ」言うなりミドリはげほげほと激しく咳き込んだ。
「ちょっと、大丈夫?」
勢いのあまり嘔吐きそうになるミドリに、サイドテーブルに置いてあったペットボトルを差し出す。
「やっぱり、少し煙吸ったのかしら」
「何、煙? どういうこと」ミドリは水を受け取りながら、怪訝な顔で聞き返した。
「火事があったのよ」
「火事?」言いながら彼は、また咽せた。喉を落ち着けようとするように、口に水を流し込む。
「重傷ではないと思うんだけど。どこか痛むところはない?」
「ここどこ?」
「本社の医務室よ。ねえ、怪我はないかって」
ミドリはまだ寝ぼけているのか、いまいち会話が噛み合わない。少しぼんやりと考えてから、「頭痛い」と彼は言った。
「頭痛ね。一酸化炭素中毒かしら」
「多分違うけど」
「甘く見ない方がいいわよ。念のため病院で診てもらいましょう。動ける? 車出すから、支度して」
ダイヤが立ち上がろうとすると、「ちょっと待って」と引き止められた。翠色の眼差しが、じっとダイヤを捉える。サングラスが外されていることに、彼は気づいていない。
「ダイヤちゃん、どうかした?」
「何が? どうもしないわよ」
「なんか、気持ち悪いんだけど」
「気分悪いの? 早く病院に」
「ほら、そういうの」
「何よ」
「一つ、いやに優しい。二つ、冷静さを欠いている」一つ、二つ、と順に指を立てながら、ミドリは言った。「ちょっと君らしくないんじゃないの」
どきり、と心臓が跳ねた。まさかこんなふざけた男に見透かされるとは。確かに、想定外の事態が発生して、気が動転していたところがあったかもしれない。
ダイヤは息を吐き、ベッドの横に置かれた丸椅子に座り直した。
「別に、優しくしてるつもりはないわ。ただの罪滅ぼしよ」
「何か罪を犯したわけ?」
「まあね」と肩をすくめる。「火事が起きたの、私のせいだから」
「そうだ、火事。火事ってなんなのさ」
「どこまで覚えてるの?」
「どこって」とミドリは少し考えて、「車に乗ったところまで」と答えた。
「そう」つまり、何も覚えてないということだ。「ぐっすり寝てたものね」
「仕方ないだろ。疲れてたんだって」
「別に責めてるわけじゃないわよ」
さて、何をどう説明しようか、と思案して、やはり順を追って話すことに決める。結局それが一番、分かりやすい。
「ご令嬢を車に乗せた後、本社に戻るまでは順調だったの」追っ手に追われるようなこともなかったし、職務質問にも遭わなかった。が、そういった細かい説明は抜きにして要点だけを話す。「でも、商品管理に引き渡す時に、少し手間取ってね。あの子、私の言うことは全然聞かなくて」
「起こしてくれればよかったのに」
「殴っても起きなかったのよ。そういう意味では、あなたのせいでもあるわね」
「ちょっと、俺のこと殴ったわけ?」
「仕方なく力尽くで引き摺り出したんだけど。そしたらあの子、とんでもないもの持ってたのよ。あなた、身体検査くらいやっておきなさいよね。そういう意味ではやっぱりあなたが悪いわ」
「何? 爆弾でも持ってた?」
「拳銃よ」
「わお」
「手のひらに握り込めるくらいの、おもちゃみたいな小さいやつ」
「またマニアックなものを」
「爆発はしたけどね。車に当たって、オイルか何かに引火して、どーん」
「待って、車って」
「私たちが乗ってきた車、あなたがぐっすり眠ってた車。爆発が起こる前に救出できてよかったわ」
「それはそれは」とミドリは顔を青くした。「えーと、助けてくれて、どうも?」
「どうってことないわよ、あれくらい。でも、隣の倉庫も燃えちゃったし、標的には逃げられるしで、散々よ」
「なんだって? 逃げられた? 嘘でしょ?」
「まあ、それも田中さんに聞いたら問題ないみたいなんだけどね。あの子、家出をしたいがために自分で自分の誘拐を依頼したんだって。だから、家から連れ出した時点であの依頼は成功だったの」
しかし、それを聞いても尚、ミドリは青褪めていた。
「何、どうかしたの?」
「大変だ」
「何よ」
「おまじないかけ損ねた」
「もう、何よ」
ダイヤはがっくりと肩を落とす。心配して損をした。
「そんなのどうでもいいわ」
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