第7話

   ◇


 電話が鳴ったのは、ミドリを花京院邸へ送り出した直後だった。『本郷ほんごう雄司ゆうじ』という表示名を確かめて、タイミングの良さに感心しながらダイヤは通話ボタンを押した。

「もしもし、叔父さん?」ダイヤは言った。

「ああ、和姫かずき。俺だ」

 ダイヤのことを『和姫』と呼ぶのはこの世でただ二人、育ての親である叔父と叔母だけだ。遺伝子上の父親から一字もらった自分の名前が好きになれないダイヤは、家族以外の人間には名字で呼ばせている。父親一家がダイヤの名を呼ぶことは滅多にないが、どうしても必要に駆られて呼ばれるときは『おい』か『おまえ』だった。

「どうしたの? こんな時間に」

「なあ和姫、もうやめよう」出し抜けに叔父は言った。「そろそろ帰ってきなさい」

「やだ、叔父さんったら。私もそこそこいい歳なんだから、いつまでも子供扱いしないでよ。たまには夜遊びくらいするわ」

 わざと的外れな答えをするダイヤに、諭すような口調で叔父は言う。「違う和姫。分かっているだろう。そもそも今回のことは全て俺の責任なんだ。これ以上おまえに手を汚させるわけには行かない」

 そんな生真面目な叔父の言葉に、ダイヤは小さく溜め息をついた。

「あのね叔父さん。誰の責任だろうと関係ないのよ。太郎たろうがこれ以上好き勝手するのを、私が許せないだけなの」

 太郎とは、ダイヤの父親の一人息子、半分だけ血の繋がった弟のことだ。

「あいつが何してるか知らないわけじゃないでしょ? 会社のお金に手をつけた挙句、借金までしてギャンブルに勤しんでるのよ。今回のことが上手く行けば、あいつは勝手に自滅してくれるの。これは叔父さんのためじゃなくて、私の復讐のためにやっていることなの」

「しかし」

「叔父さん」反論しようと口を開く叔父を遮る。「あのね。もう少しで上手く行くかもしれないの。やっと手がかりが掴めたのよ」

「なんだと?」

「あと少し。あと少しだけだから、もう少しだけ時間をちょうだい」

「でも、やっぱり心配だ。いつか危険な目に遭うかもしれないだろう」

 それが本心で言ってくれていることくらい、声を聞けば分かる。だからダイヤは、努めて明るくこう返した。

「大丈夫よ」

 幼きあの日、太郎にいじめられていた私に戦い方を教えてくれたのは叔父ではないか。

「知ってるでしょ? 私、すごく強いんだから」


   ■


 やはり一日に二人はきついな、とミドリは仰向けのまま溜め息をついた。しかもインターバルは三時間弱だ。全身に疲労が溜まり、頭には痛みに満たない重さがある。湯船に浸かってリフレッシュしたいところだったが、さすがに宅配員が風呂を借りるわけには行かない。しかしベッドで休んでいる暇もなく、引き摺るようにしながら体を起こした。

 ベッドのシーツは、常識的な寝相ではあり得ない乱れ方をしている。軽く手で払うようにしながら整えてはみたものの、染みついた鮮血や粘液の跡を見れば、ここで何が行われたのかは一目瞭然だろう。

 一人娘の純情が奪われたと知れば、彼女の家族はどんな風に怒るのだろうか。まともな倫理観を持ち合わせた身内のいないミドリには、少しも想像はつかない。

 ミドリはベッドから降り、散り散りになった宅配員の制服を、拾った順に身につけていった。靴下が片方だけ見つからずに手間取ったが、そこら中探した後、どういうわけかベッドの下から出てきた。

 ようやく服を着終えたミドリは、床に置きっぱなしになっていた段ボールに手を伸ばした。蓋を止めるガムテープの縁を爪で引っ掻いて剥がし、勢いよく引っ張ると、ベリベリという耳障りな音を立てて段ボールが開封される。

「お待たせいたしましたわ」と声がしたのは、その時だった。ドアが開く音を聞き逃したのだろう。振り返れば、部屋の入口には白いレースのワンピースに着替えた麗子の姿があった。急いで風呂から出てきたらしく、肩まである髪からは水が滴っている。

 ミドリは立ち上がってベッドに座り直し、「おいで」と両手を広げた。すると麗子は少し躊躇うような様子を見せながらも、その細い身体をすっぽりとミドリの腕の中に収める。

 大人しく髪を撫でられる彼女は至って幸せそうで、ミドリは胸が締めつけられるような思いがした。

 ミドリは知っていた。この痛みは愛情からではない。憐憫からだ。

「おかえり」

「ただいま戻りましたわ」

「ごめんね」

 ミドリが言うと、麗子は不思議そうに顔を上げた。

「俺たち、少しの間しか一緒にいられないんだ」

 麗子が小さく息を呑む。「そんな。あんまりですわ」

「仕方ないことなんだ」

「せっかく運命の人にお会いできましたのに」

「運命の人?」

 麗子の言葉に、小さな違和感があった。なんだろう、と考えて、すぐに気がつく。

 ミドリと結ばれ廃人になった者でも一応の会話はできるが、それはとても正常な状態とは言い難く、大抵はこちらの質問に答える程度のことしかできなくなる。自分の意思で言葉を発することをしなくなるのだ。しかし『運命の人』というのは、彼女自身の思考によって発せられた言葉に思えた。

「だってわたくし、ずっとお願いしておりましたのよ。どなたかわたくしをここから連れ去ってって。でも本当はもう諦めておりましたの。待ちくたびれて眠ってしまいましたわ。そうしたらわたくし、貴方のキスで目覚めましたのよ。まるで眠り姫のように。貴方はきっと、運命の王子様なのでしょう?」

 なんだか意味の分からない話を、夢見心地で麗子が語る。「うん。そうだね。君は俺のお姫様だ」などと話を合わせるのもお手のものだ。

「王子様、お願いですわ。わたくしを一緒に連れていって」

 ミドリは麗子の顎に手を添えた。その眼差しは、ミドリの両目を真っ直ぐに見つめている。

 麗子の目蓋が下りたのを合図に、ミドリは彼女と唇を合わせた。毒を注ぐように念入りに熱を通わせた後、もう一度、彼女の顔を見る。

 大丈夫、問題ない。

 それはうんざりするほどに見慣れた、意思の光の消えた濁った目だ。

「もちろんだよ」

 運命の人、と麗子は言った。

 占い師の言葉とは、きっと関係ないだろう。


   ■


 麗子を連れてバルコニーに出ると、ちょうど真下のあたりでダイヤは既に待機していた。段ボールに入れて持参した縄梯子の一端をバルコニーの手摺りに引っかけ、反対側を下に落とすと、何も言わずともダイヤはそれを受け取り、梯子が揺れないように押さえてくれる。

「さあ。行って」

 背中を支えてやりながら、麗子を手摺りに上らせる。不安定な縄梯子で下りるのは怖がるだろうと思ったが、意外にも彼女は「窓から逃げるなんて、ラプンツェルみたいですわ」とはしゃいでいた。

 麗子が無事に地面に辿り着いたことを確かめると、ミドリは縄梯子を手摺りから取り外し、下へ落とした。現場から証拠を消すことはさほど重視はしていなかったが、あまり備品を使い捨てにすると、事務方から小言を言われるのだ。

 ミドリは手摺りを跨いで乗り越え、懸垂の要領でバルコニーにぶら下がってから地面へ飛び下りた。着地の瞬間、膝に重い衝撃が走るが、二階程度の高さから飛び下りたくらいでは怪我などはしない。

 が、そこで問題に気づいた。「げっ。靴忘れた」

 地面に降り立った足に履いてきた革靴の姿はなく、黒い靴下が剥き出しの状態だ。

「馬鹿ね」とダイヤが白い目をする。「どこに忘れたの?」

「玄関」

「さすがに取りに戻れないわよ」

「最悪」ミドリはがっくりと肩を落とした。「オーダーメイドの新品だったのに」

「諦めなさい」

 その時、クスクスクス、と風が囁くような音が聞こえ、ミドリたちは思わず振り返る。二人のやり取りを見ていた麗子が、声を殺して笑っているのだ。

「どうかした?」

「いえ。靴を忘れていらっしゃるなんて、まるでシンデレラみたいだと思いましたの」

 ダイヤがまじまじと麗子の顔を凝視しながら、ミドリの脇腹を肘で小突く。

「あなた、ちゃんとやることやってきたんでしょうね」

 操り人形にしては意識がはっきりし過ぎていないか、と彼女は問うているのだ。

「野暮なこと聞くなあ。当たり前でしょ」

「手抜いたんじゃないでしょうね」

「まさか。俺は全身全霊で愛してるよ」ぎくりとしながらミドリは答える。

 心当たりはないでもなかった。想像以上に疲労が激しく、あまり集中することができなかったという自覚はある。彼女と身体を重ねる瞬間、数時間前の市長の姿が、ほんの一瞬だけ脳裏に浮かんでしまったのだ。

「ちょっと、何か試してみせなさいよ」とダイヤが小声で言う。

 ミドリはむっとしながらも、「あー、麗子?」と彼女の名前を呼んだ。

「はい」

「三回回って、『ワン』って鳴いてみてくれる?」

「あら嫌だ。お恥ずかしいですわ」

 彼女はそう言いながらも、まるでバレリーナのようにくるくると綺麗にスピンをし、スカートの裾を持ち上げてお辞儀をしてから、「ワン」と鳴いてみせた。

「ほらね、大丈夫でしょ」

「本当かしら」ダイヤはまだ不審そうな目をしている。

「こういう子なんだよ。ちょっと変わった子なの」

 またしても、クスクスクス、と麗子は笑った。「変わり者だなんて。美女と野獣のベルみたいですわ」

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