手記
それは自宅のポストに入っていた。淡い紫色をしたざらついたプラスチックが表紙の、A6サイズのダブルリングノート。
どうしてか、それを不気味に思うようなことはなかった。まるで自分宛てに届くのが約束されていた荷物のように、まったく自然に、それを手に取った。そしてその場で、ポストの扉を開けたまま表紙を開いた。
『おどろいたことに、私には文字が書けた。だから、これを書くことにした。』
心臓が震えるようだった。その言葉の意味はわからないのに、記憶にあるのとは一人称も違うのに、誰がこれを書いたのか、すぐにわかった。
震える手がノートを投げ落としてしまわないようにしながら、脚が震えるまましゃがみ込んだ。
濡れた目で、一般的には綺麗とはいえない愛おしい字を読み、かじかんだような指でページを繰った。
発狂の波が内臓から突き上げてくるようだった。正気を失ってしまう前に涙があふれた。発狂の叫びは嗚咽に搔き消され、代わりに胸が張り裂けそうになる。
ノートを両腕で胸に抱いた。
笑えるものか! どうして、こんな状況でどうして笑えると思う! 笑えるものか、もう二度と笑えやしない、おまえがいないから!
もういい、もうたくさんだ、もう、おれをそこへ連れてってくれ!
近くの店で花を買った。
無数に立っている中でひとつ、特別な石の前に着いた。古い花をとって、古い水を捨て、柄杓で新しい水を入れた。そこへ買ってきた花を挿した。
石を叩いた。ペチンと音がした。石に手をついたまま下を向いた。涙が落ちていった。
「無茶いうなよ、どうしたら笑えるよ?……おまえがいないで、なあ、どうしたら!……笑えるんだよ!……ふざけんな!……」
ふわりと風が吹いた。
「なあ、好きだよ」
彼は、ノートにあったように「おれも好きだよ」と応えてくれているだろうか。
でも違う、おれの好きと彼の好きとの間には、どうしようもない距離がある。その証拠に、彼は手記に書いていた。おれと、性的な接触は望んでいないと。
「なあ、なんでおまえだったんだ、ふざけんなよ!……」
あの日、おれが彼にたまらなく、くちづけがしたくなった、そのあとのこと。彼はそれをノートに書かなかったが、あのあとすぐ、彼はここにきた。
彼は踊り場の窓の下で壁に寄りかかり、足首を重ねて「まったくひどいよな」と笑った。「おまえがちょっとおれをからかっただけで、付き合ってるとかなんとかいって、異常者扱いだ」
胸に包丁でも押し込まれたみたいだった。目の前が暗くなった。
「じゃあ言ってやろうかな。おれは藤橋が好きだって」
体は凍えるような寒さを感じながら、彼が両手を後頭へ持っていこうとしたのをはっきりと見て、その手首を掴んだ。もっとも、彼が後頭で手を組もうとしていたのだとわかったのは、その手を放してからだった。
「やめろ!」
「なんだよ、噓じゃないしいいじゃねえか」
「そういう問題じゃない」
「なに。痛いよ、放して」
その通りにしてやっと、彼が後頭で手を組んで、おれは自分が封じた彼の動きを知った。
「藤橋、おれはおまえが好きだよ」
「でも──」
「おかしくね? どいつもこいつもちょっと仲良くしてたら色恋を連想しちゃって。ちょっときもいよ」
「でも──」
「好きって恋愛の一種類じゃないだろ。おれ嫌なんだよね、好意が全部恋愛的な意味にとられて、しかもそれが同性相手じゃこうして異常者扱い。異常なのはてめえらの方だろっつの」
「でもだめだよ、余計なことするな」
「誤解を解くんだよ。おれたちは友達。そうだろ? それを伝えるんだ」
「伝えてなんになる!」
おれはこのとき、激しく腹を立てていた。およそ周囲が騒ぐままの意味で彼を好いていたせいだ。それを彼自身にまで否定されたようで、腹が立っていた。
「だってうざいだろ、勝手に騒がれるの」
「いいよ、ほっとけ」
「おれは嫌だ。あいつらの恋愛に支配されきった脳にはうんざりだよ。現実を突きつけてやろう」
彼はそういったとおり、平気な顔をしておれが好きだというようになった。それは、その『好き』がおれの彼に対するものとはまるきり違っていることを、この上なくはっきりと示していた。
周りは考えを改めることはしなかった。「でも藤橋の方は本気で好きっぽくない?」といって、騒ぎ続けた。
そして彼に、恐ろしい計画を立てさせた。
「ほんっと腹立つ」
そのときの彼は、周囲の反応を心の底から不快に思っているようだった。
「なあ、おまえだってむかつくだろ? あんなんじゃないのにさ」
なにもいえなかった。彼のいった『現実を突きつけてやる』というのは、彼の予想に反する形で、しっかりと果たされた。周囲は彼がおれに対して恋愛感情を持っておらず、おればかりが彼に焦がれている現実を見つめた。
おれがなにもいえないうちに、彼は小さく笑った。
「だからさ、おれもういってやろうかと思って」
脳が理解を拒んだ。はっきりと、それを自覚した。
まったく解釈が間違っていると気づきながら、なにをいうつもりだ、などと考えた。彼は解説をはじめた。
「おれなんてどうせ身内いないし。迷惑かけることもないんだよ。で、それからあともおまえが平気でいれば、あいつらの色恋に染まりきって腐った脳みそも生き返るんじゃないかと思ってさ」
彼は幼いころに両親を亡くし、それから育ててくれた親戚の人も、おれが彼に出会う少し前に亡くしていた。両親の片方は一人っ子で、そちらもまた若いうちに両親を亡くしていたといい、彼はこの学校に、児童養護施設から通っていた。おれには大勢の親戚がいるが、彼はそうじゃないらしかった。
「は?……」半開きの口から乾いた笑いがこぼれた。「なにいってんの?……」
「あいつらに、全部間違ってたって教えてやるんだよ。藤橋、おまえを大好きなおれは、周りのからかいに耐えられなかった。で、おまえはやつらのせいで友達を失う」
「は?」
「さすがにこれだけの罪悪感を覚えさせれば、あのクソ脳みそも目を覚ますだろ」
「は? なあ、なにいってんだよ? え? ねえ冗談でしょ? まさか、まさかさ、ねえ、そんなこと……しないでしょ?」
すがっている可能性が極めて小さなものであると、どこかで理解していた。だからほとんど泣いていたし、手は震え、息のしかたも忘れ、目はなにも見ていなかった。
それでもはっきりと見えたものがあった。彼が笑ったのだ。ただ、静かに笑ったのだ。
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