追懐
せっかくだから彼との出会いについて書こうと思う。
あゝだめだ。それじゃ私がじゃまになる。私は彼を書きたい。彼について書きとめたい。藤橋について。あゝ藤橋、あの愛しい人について!
藤橋というのは特別な男だ。こんなふうにいうときによくあるような美男子であるとか明晰な頭脳をもっているとかそういうことではない。もっとこう感覚的な、抗いがたい魅力をもった男なのである。
彼は私の入った学校にいた。そこでかがやいてた。彼の笑い顔はそれはすばらしいもので、月みたいなものだった。月がまったく満ちたのからどんなに隠れていって ついには新月となろうとも、だれも存在を忘れたりしないように、藤橋の笑い顔というのは、それこそ後ろ髪しか見えないでも、網膜に焼きついて、頭から離れないでいるのだ。
彼はやあといって声をかけてきた。よく晴れた日のことだった。記憶は彼と関するととたんに綿密になる。実際、鮮明に思い出せる。あれはよく晴れた日であって、それで空気がかわいてたから、まわりの土がぱさぱさして、風がふくたびに舞いあがっていた。
そんな日に教室で、彼はやあといって声をかけてきた。私の読んでた本をみてなにを読んでるんだいといった。親戚の者が買ってくれた大切なブックカバーを外して、親の買ってくれた大切な本の傷みの目立ってきた表紙をみせてやると、彼はむつかしそうなものを読むねといった。そのときも彼は、藤橋は笑ってて、精神的な部分の孤独な夜みたいなところを照らした。満月が木々の影をうつすみたいに、正面に現れた彼の笑い顔が、精神的なところの、後ろの方へ影をのばした。
藤橋はほかの者にはない魅力をもってたから、すぐにうちとけた。
藤橋は、いうなればかがみの中の私みたいなもので、考え方から得意とすることから苦手とすることまで、まるで反対だった。こうした互いの性質は私たちのより強固な絆となった。
こちらが教えれば彼もこちらに教えてくれた。その時間帯はさまざまであった。正午より前であったり、ちょうど日の高いころであったり、世間がまばゆい橙の膜をはったころであったり、星が見えたり月が見えなかったりする夜だったりした。
そういうとき、彼はふだんとは調子がちがった。まるでなにか、なにか精神を特別刺激するものがあるような顔をしていた。この刺激というのはべつに悪いものじゃなく、むしろ、むしろなにか美しい花であるとか、好きな景色であるとか、そういうものにふれて受ける刺激である。
彼はある日、世間がまばゆい橙の膜をはったころ、そんな調子で笑った。で、かわいいといった。それからあたたかい指の先をかさねてきて、また笑った。それでおまえは敏感だというと、こうしてちょっとさわるとおどろいた顔をするんだといった。
からかわないでくれといった。彼はごめんよといって指をはなすと、あんまりにおもしろいからとまた笑った。そのとき、部屋の温度があがった。まるで全身にじんわりと汗をかくような感じになった。それで、なにかちょっと運動でもしたみたいに、鼓動が意識に割りこんできた。
彼 藤橋 とは、いろいろのことをした。いろいろのところへ行った。
その日はもう寒くなってきた時期で、彼といた場所には落ち葉がたくさん落ちてた。彼はベージュのコートを着てて、寒そうにポケットに両手をつっこんでいた。私もそれをまねるみたいに、その日着てた上着のポケットに手を入れた。
風が冷たいな、と彼はいった。風とたわむれる髪が太陽の光できらきらしてみえて、肌の白いほほや鼻の頭が赤くなってた。その赤みはいつまでも視線をはなしてくれなかった。
藤橋があっちを向いてしまってやっと足元をみた。降り積もった枯葉をけった。ガシャアと大きな音が立った。それは彼を笑わせたうえで、まるで子どもみたいにした。彼は水たまりにはしゃぐ子どもみたいに足を踊らせて、厚く重なってる落葉を踏んづけたりけったりした。乾いた葉が音を立てるたび、彼は月みたいな、あるいはもっと強い魅力をもったなにかしらに似た笑みをみせた。
風が吹いて、頭上や体のそばで赤い葉がシャラシャラと音を立てた。寒いといって肩をすくめた彼の 藤橋の耳の上の方が赤くなってた。彼の体の赤みは道端のかれんな花みたいなもので、目につくと時間が止まったみたいになる。音も匂いもなくなって、風の冷たさも感じなくなる。
彼が振り返った。それで笑った。それで手をのばしてきた。それで、髪からなにかとった。それをみせるように人差し指と親指をのぞく全部の指を広げた。すぐそばに生えてるカエデの、一部黄色っぽいとこのある赤い葉があった。
彼は、おまえはホントにかわいいなといった。からかうなよといって目をそらすと、彼はまたかわいいよと笑った。
足元の葉がカサリと音を立てた。前を向こうとしたところで、あたたかくて、ちょっとしめったものがほほにさわった。
世界に突然、夏がやってきた。コートも中の服も全部脱ぎ捨てたい衝動にかられた。
ほほにさわった彼の 藤橋の、藤橋の指先は完全に動きを封じてしまって、そのままで熱をあげてった。
かわいいとささやいた彼の 藤橋、藤橋の声が、体を火の中にとじこめた。あゝ あゝそうだ、だって息が苦しかった。煙の中にいるみたいに息ができなくなって、肌は熱にとけてくみたいだった。
好きだよと彼はいった。私も、好きだと答えた。でもそれは彼をあんまりよろこばせなかった。彼は 藤橋はいつものとはちがう、なにかちょっと悲しそうなような笑い方をした。うそじゃないといっても、その笑い方は変わらなかった。ちがう変わらなかったどころかますます悲しそうなふうになった。
彼との藤橋 とのこの場面にはおなじ学校にいる人が遭遇してたのだが、それについて書くことは私について書くことになる。私は私より、彼が、藤橋が好きだ 愛してる。だからこのまま彼について書く。
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