第3話 踏み台

 今までの人生で最も苦しい経験となった1ヶ月前の出来事を思い出して、一人で黙々と酒を飲み続けていた優は、まだ午前中だというのにかなり酔ってしまっていた。


 彼は、どれだけ酒を飲んでも今の苦しさが紛れることはなく、辛い記憶がなくなることもないという事実をちゃんと理解していた。でも、それでも飲まずにはいられなかった。


 愛莉との出来事は、そうでなくても決して高いとは言えなかった優の自己肯定感を完全に破壊し尽くしていた。


 優は、自分が女性から「彼氏としては30点、夫としては100点」と言われるような、「優しいだけが取り柄で、男性としての魅力に欠ける人間」だと認識するようになっていた。


 そして、今まで彼と付き合ってきた女性たちにとって優は「彼女たちが一番辛かった時期に、たまたまそこにいただけ」で、自分は彼女たちにとって「踏み台」で、一時的な心の拠り所に過ぎなかったと考えるようになっていた。


 愛莉との出会いは彼女が大学3年生で、優が大学1年生だった頃のことだった。


 同じサークルに所属していた先輩だった愛莉の就職活動がうまくいかず、彼女の心が折れかけていた時期に、なんとなく彼女の話を聞いてあげたことがきっかけで、二人は少しずつ仲良くなっていった。


 そして優が2年生になり、当時すでに自然消滅の状態に近かった遠距離恋愛中の彼女と正式に別れた時に、無事に希望する業界から内々定を勝ち取った愛莉が「今度は私が乾くんを励ますから」と言いながら優に積極的なアプローチをかけたことで、二人は付き合い始めていた。


 優は愛莉の転職活動時に積極的に彼女を励ましていたつもりはなく、たまに先輩の愚痴を聞いてあげているくらいの感覚だった。


 しかし、愛莉の方は、「正直、客観的に見ると横山よこやまさんが就活に失敗するとは思えないんですよね。外資コンサルとか大手総合商社以外は一切受けないというスタンスでもない限り」という優の何気ない一言に強く勇気づけられていた。


 優は、単純に「港南学院こうなんがくいん大という学歴と、愛莉のコミュ力を考慮すると、よほど高望みしない限り志望業界から一つも内定が出ない方が不自然」という事実を伝えただけのつもりだったが、予想以上に就活に苦戦し、人生で一番自己肯定感が低くなっていた愛莉にとって、優のその言葉が救いであり、自信を取り戻せるきっかけになった言葉だった。


 当時から恋愛に関しては奔放なタイプだった愛莉は、大学ではその存在を隠していた社会人の彼氏がいながらも、それとなく優の気を引こうとしていたが、当時は「一応」遠距離恋愛中だった優に明確な線引きをされ、愛莉は優の誠実なところにも惹かれていった。


 そして優が遠距離恋愛の彼女と正式に別れたことを知った瞬間から、愛莉は電光石火の猛アプローチをかけて優を自分のものにすることに成功した。


 その後、今度は優が就職活動をするようになってから、愛莉は先輩として的確なアドバイスを送ってくれると同時に、彼の就職活動を献身的にサポートした。


 だから優は、自分が今の職場に入社できたのは間違いなく愛莉がいてくれたからだったと考えていて、彼女には深く感謝し、可能な限り良い彼氏でいようと頑張っていた。


 そして、愛莉が裏でずっと浮気をしていたとは夢にも思わないくらい、優は彼女のことを心から信頼していた。


 だからこそ優は愛莉に裏切られたことを、優はどうしても受け入れることができなかった。怒りとか恨みよりも、愛莉のことを思い出すことが苦痛だった。


 愛莉と一緒に過ごした5年以上の思い出は、今となっては優のメンタルを蝕む毒になっていた。


 愛莉との出来事が原因で、優は女性自体を信じられなくなっていた。優のネガティブな思い出は愛莉の前に彼が付き合っていた元カノで、中学時代からの同級生だった美咲との思い出に移っていった。


 彼女もまた、優を一時的な心の拠り所にしていた女性の一人だった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 栗原美咲くりはらみさき。優と同じ港南学院中学・高校を卒業し、そのまま港南学院大に内部進学はせず、国立大学の医学部に現役で合格した極めて優秀な子だった。


 どうやら中学受験時は港南学院よりも高偏差値の中学、具体的にいうと女子御三家にも進学できる学力を持っていたものの、ちょうど受験シーズンに体調を崩していたこともあり、本来の実力を半分も発揮できず、最終的には滑り止めとしか考えていなかった港南学院中学に進学したようだった。


 彼女は中学受験失敗が原因で自分への自信を失っていたものの、本来の学力はずば抜けて高かったため、中学1年の最初のテストから学年トップの成績を叩き出していた。そんな彼女の幼い頃から将来の夢は医者。


 しかし、かなり自信を持っていた中学受験の失敗が彼女にとってはトラウマに近い記憶として残っていたようだった。


 そして美咲の実家は決して貧しくはないものの、私立の医学部に通わせられるほど裕福でもないようで、医学部を受験するとしたらおそらく選択肢は国公立に限られるとのことだった。


 美咲は、中1で「私立の医学部は親のあまりにも負担が大きいから」という大人びた考え方をしていた。そして、それを同学年の友人である自分にも淡々と言えるところが特にすごいと、優は感じていた。


 彼女の冷静で客観的な性格は優と似ているところがあったが、美咲はあらゆる面で自分の上位互換に見えた。優は、そんな美咲に対して尊敬に近い感情を抱いていた。


 しかし、自信喪失気味だった美咲は、国立大の医学部への進学は自分には無理だと考え、医学部の受験自体を諦めていた。


 あれだけ努力した中学受験で結果的に辿り着いたのが港南学院中学なら、おそらく自分の本来の力はちょうどそれくらい。だから港南学院大が自分にとっては妥当な進学先だというのが、美咲の当時の自己評価だった。


 中学1年で美咲と同じクラスになり、性格や感性の部分で相性が良かったのかすぐに彼女と打ち解けて仲良くなった優は、それがもったいないと思った。


 港南学院高校は、国公立大への受験は港南学院大への推薦権を保持したままチャレンジすることが認められている学校で、毎年、理系の最優秀層からは国公立大の医学部の合格者が数名出ていた。


 ほぼ常に学年1位の成績をキープしている美咲なら国公立の医学部に進学することは十分可能。仮にダメだったとしたら、その時は港南学院大に進学すれば良いだけの話。


 ほぼノーリスクでチャレンジできるわけだから、やりたいことをやってみれば良いのにと、優は思った。


 中1の夏頃にはすでに美咲と本音を言い合える仲になっていた優は、自分の考えていることをそのまま美咲に伝えた。


 本来の美咲の学力を考えると相対的に低い偏差値の学校とはいえ、港南学院中学は十分、高偏差値といえる学校。


 そこで学年1位を取れたことである程度は自信を取り戻していた美咲は、優の言葉に納得し、ダメ元で中1の夏休みから改めて医学部を目指すことを決意した。そして優の予想通り、彼女は医学部に現役合格してみせた。


 唯一の問題は、美咲が第一志望だった地元市立大の医学部には合格できず、合格できた大学が山梨県にあったことだったが。

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