第2話 破綻
菜月との話し合いの後、魂が抜けたような感じで帰宅した優のところには、その日の夕方から愛莉から大量のメッセージと不在着信が届いていた。しかし、優はショックから電話に出ることも、メッセージに返信をすることもできずにいた。
スマホを操作するどころか、着替えることさえもできず、優は帰宅してからずっと無言で自宅のソファーに腰をかけて、ただ一人で茫然としていた。優の部屋を支配していた嫌な静寂は、その静寂を作った元凶である愛莉によって破られることになった。
優の部屋の合鍵を持っていた愛莉は、優からの返信はおそらく来ないと判断したのか、優の部屋に直接訪れていた。
優が部屋の鍵をかけるすら忘れていたため、愛莉は最初から開いていた鍵を一度は施錠してしまい、入室にやや手間取っていたが、結局はそこまで長い時間をかけることなく開錠に成功した様子だった。
愛莉は、優が部屋にいることを確認した瞬間、頭を床に打ち付けるくらいの勢いで土下座を始めた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい!」
愛莉は、こういう場面のテンプレとも言える「違うの」から始まる言い訳をするつもりはないようだった。言い訳をするつもりがないというより、したくてもできないというのがより正確かもしれない。
菜月は事前に周到にスケジュールを組んで動いていた。あえて優との話し合いは午前中にセッティングして、そのまま午後に自分の夫と愛莉を呼び出し、自分が不倫の事実を知っていることを告げていた。
そしてその場で菜月から「この人が既婚者だったことを知らなかったということなので、それが本当かどうかは分からないけどあなたへの慰謝料請求はやめておく。でもあなたのような女と結婚するなんて彼氏さんがあまりにも可哀想だから、あなたがしてきたことは彼氏さんに伝える、というか、もう伝えた」と言われた愛莉は、慌てて優と連絡を取ろうとし、連絡が取れないことに焦って優の自宅にまで押しかけてきたのだった。
「優にプロポーズされるまで浮気をしていたのは事実。そこは言い訳しないし、できない。でも優にプロポーズされてからはもう関係は整理した」、「私が本気で好きなのはずっと優だけ」と、言い訳はできないと言いながら、強引な言い訳を混ぜてきていた。
とはいっても、愛莉は基本的に「本当にごめんなさい。もう二度としません。どうか許してください」という平謝りの姿勢で、何度も頭を下げて優にしがみついていた。
しかし、優は許す、許さない以前に、まだ自分の身に起きたことを受け止めきれていなかった。愛莉の言葉に対してどう反応して良いかも分からなかったし、何か反応をする必要性も感じなかった。
結果的に、優は愛莉に対して激怒することもなければ、彼女の謝罪を受け入れることもなく、ただ無言で愛莉の言葉を聞き流しているだけの状況になっていた。
愛莉の言葉を日本語として認識はできていたが、無意識に愛莉の言葉を完全にシャットアウトしていた。
あの時の優には、今後の愛莉との関係をどうするかを考える余裕は一切なかった。ただ、一つだけ確信していたのは、自分は今後、愛莉から何を言われても彼女の言葉を全く信用できないだろうということだった。
だから優が愛莉にかけた最初の言葉は、「疲れてるからとりあえず今日は帰って欲しい」というものだった。
その言葉を聞いてさらに大泣きしながら謝罪を続ける愛莉だったが、その段階で優はすでに愛莉と同じ空間にいること自体を苦痛に感じ始めていた。そして、優にはその気持ちを隠す理由が全くなかった。
「愛莉が出ていかないなら俺が出ていく。正直、今は愛莉の顔を見るのが苦痛」
その言葉を聞いて愛莉はさらに号泣してしまったが、さすがにそれ以上粘る気にはなれなかったようで、「明日また来るね。本当にごめんなさい」という言葉だけ残し、その日は帰宅していた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
その日は一睡もできず、絶え間なく届く愛莉からのメッセージをすべて無視した優だったが、翌日、めげずに愛莉が優に部屋にやってきたことで、いよいよ愛莉と会話をしないといけない状況に追い込まれていた。
元々客観的で冷静な性格の優は、受け入れがたい現実に激しく打ちのめされている中でも、愛莉は「単なる彼女」ではなく、「両家への結婚の挨拶まで済ませた婚約者」であることから、LINEをブロック、電話番号は着信拒否にして合鍵も返してもらうだけですべて終わりという形にはできないことを理解していた。
前日はあまりにもショッキングな出来事を心が受け止めきれず、茫然としていた優だったが、一晩じっくり考えたことで、すでに彼の中では明確な結論が出ていた。
菜月からの「結婚は一度白紙に戻すべき」という言葉がなかったとしても、彼が出す結論は変わらなかっただろう。
元々優は、人の言葉にあまり左右されず、なるべく客観的に事実を分析して自分自身で最も合理的だと判断した選択肢を選ぶ人だった。今回は、偶然にも菜月からのアドバイスが、優の考えていた結論と同じ内容になっていただけだった。
だから、その日も部屋に入ってきた瞬間から繰り返し反省と謝罪の言葉を述べ続ける愛莉に対して、優は淡々と自分が出した結論だけを伝えることにした。
「俺、もう愛莉とはやっていけない。婚約はなかったことにしよう」
優の言葉を聞いた愛莉の目が大きく見開かれた。そして次の瞬間から、愛莉は激しく取り乱しながら号泣した。
そんな愛莉の姿を見ながら、優は「泣きたいのはこっちなんだけどな…」という理不尽さだけを感じていた。愛莉に対する同情の気持ちは少しも沸いてこなかった。
だから優は、「何でもするから許してほしい」、「どうか考え直してほしい」、「もう一度だけ私にチャンスをください」と懇願する愛莉に対して、「俺の気持ちは変わらない。もう俺は愛莉のことを少しも信用できないから」と率直な気持ちを淡々と伝えていた。
その後の優から愛莉への言葉はもはや事務連絡に近いものだった。
「うちの親には俺から婚約破棄になったことを伝える。愛莉のご両親には自分で伝えて。理由は愛莉の好きなように伝えていいから」
愛莉はその後も必死に優を説得しようとしていたが、元々優はみんなに優しく接する穏やかな人に見えて、実際には人間関係を狭く深く構築するタイプ。
一度「この人は違う」と思ったら問答無用でその人との関係を切り捨てるドライな一面もあることを、5年以上優と付き合ってきた愛莉自身が誰よりもよく理解していた。
愛莉は自分が「切り捨てられる対象」になったことを明確に自覚し、絶望していた。愛莉の自覚は100%正しかった、優からの次の言葉には、明らかに「なんでもいいから、とにかく愛莉との関係を完全に断ち切りたい」という彼の意思が強く反映されていたのである。
「指輪は返さなくていいし、もし婚約破棄の慰謝料が欲しいなら払う。その代わり、もう二度と俺の前に現れないで」
「慰謝料なんかいらない!逆に私の方が払うから!だからどうか…、どうか優のそばにいさせてください!」
前日から数えてもう何度目かも分からなくなってきた土下座をしながら優に懇願する愛莉だったが、その可能性がもう残っていないことを愛莉自身がよく理解していた。
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