白菊の名簿に名を置く日

白菊の名簿に名を置く日


 午後の光は、病院の廊下をやさしく撫でていた。

 ワックスの匂い。消毒液の残り香。窓の外では、木々の葉が風に擦れて、かすかな音を立てている。


「……こちらです」


 事務の女性が、静かに扉を開けた。

 小さな会議室。白いテーブル。椅子が三脚。

 壁際に、白い菊の写真が額に収まっている。


「白菊会の登録説明になります」


「……はい」


 朝倉悠真は、白衣のポケットから手を出し、膝の上に置いた。

 手の甲に、薄く走る古い傷。

 縫合の結び目を思い出す感触が、まだ残っている。


「献体は、生前登録です」


 女性は、紙を揃えながら言った。

 紙の角が、軽く擦れる音。


「亡くなられた後、ご遺体は大学へ。

 解剖学の実習、研究に使われます」


「……分かっています」


 自分の声が、思ったより低い。


「ご家族の同意が必要です。

 登録後も、いつでも撤回できます」


「……それも」


 頷く。

 撤回できる。

 だが、撤回する気はなかった。


 ペンを渡される。

 冷たい金属。

 指先に、少しだけ緊張が走る。


「……先生は、外科医でいらっしゃいますよね」


「はい」


「きっかけを、お聞きしてもいいですか」


 一瞬、言葉に詰まった。

 きっかけは、多すぎる。

 雨の夜。

 赤い手袋。

 保健室の声。

 解剖実習の、重さ。

 夜明け前の病棟。


「……学生の頃、解剖実習で」


 悠真は、ゆっくり言った。


「“点数じゃない人間”に、初めて触れました」


 女性は、黙って聞いている。


「名前のない“標本”じゃなかった。

 誰かの、人生でした」


 鼻の奥に、あの独特の匂いが蘇る。

 甘く、苦く、胸に残る匂い。


「その人がいたから、

 今、僕は縫えます」


 言葉が、自然に続いた。


「だから……

 僕も、そこに並びたい」


 白い名簿の端に、菊の透かし。


「……良医づくり、ですね」


 女性が、静かに言った。


「はい」


 即答だった。


「“名医”じゃなくていい。

 止めない人を、育てたい」


 ペン先が、紙に触れる。

 カリ、と音がした。


 氏名。

 住所。

 生年月日。


 自分の文字が、いつもより少し丁寧になる。


「ご家族への説明文、こちらです」


 封筒が差し出される。

 紙の重み。

 軽くはない。


「……妻には、話しています」


「反応は」


「……泣きました」


 正直に言うと、胸が少し痛んだ。


「でも、最後に言われました。

 “あなたらしい”って」


 女性は、微笑んだ。


「多いです、その言葉」


 サイン欄。

 最後の一筆。


 手が、わずかに震えた。

 初執刀のときの震えとは違う。

 恐怖じゃない。

 区切りの震えだ。


「……焦るな」


 自分で、自分に言う。

 手は、時間で育つ。


 名前を書き終える。

 インクが乾くまでの、短い時間。


「登録、完了です」


 女性が、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「……こちらこそ」


 立ち上がると、窓の外の光が、少し眩しかった。


 廊下に出ると、若い研修医が立っていた。

 白衣が、まだ少し大きい。


「先生……今、いいですか」


「どうした」


「……解剖、怖くて」


 声が、かすれている。


 悠真は、立ち止まった。

 自分のさっきの震えを、思い出す。


「怖くていい」


「……え」


「怖いってことは、

 人として見てるってことだ」


 研修医の喉が、こくりと動く。


「……逃げなければ、それでいい」


「はい」


 短い返事。

 だが、芯がある。


「……先生」


 研修医が、少し迷ってから言った。


「もし……自分が、誰かの役に立てるなら」


 悠真は、微かに笑った。


「立てる」


 即答だった。


「必ず」


 研修医は、深く頭を下げた。


 別れ、歩き出す。

 手洗い場の前で、足が止まる。


 水を出す。

 流れる音。

 石鹸の匂い。


 鏡の中の自分を見る。


「……縫い目の先へ」


 小さく、呟く。


 いつか、この身体が、

 若い手の練習台になる。

 震える手が、

 確かな手になる、その途中に置かれる。


 それは、終わりじゃない。

 続きだ。


 白衣の袖を整え、廊下へ戻る。


「朝倉先生、次の手術です」


「……はい」


 今度の“はい”は、

 名簿に名を置いた重みと、

 静かな誇りを、ちゃんと含んでいた。


 白菊は、咲き誇らない。

 だが、確かに、

 命をつないでいる。


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『縫合の時間(とき)』 ― ある少年が、手で命をつなぐまで ― 春秋花壇 @mai5000jp

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