エピローグ|縫合の時間(とき)
エピローグ|縫合の時間(とき)
雨は、静かに降っていた。
強くもなく、弱くもなく、街の輪郭を少しだけ曖昧にする雨だ。
「……ここ、です」
タクシーの運転手にそう告げ、朝倉悠真はドアを閉めた。
傘を開くと、雨粒が布に当たって、細かな音を立てる。
病院ではない。
学会でもない。
今日は白衣も着ていない。
墓地の石畳は、雨に濡れて、少し滑りやすかった。
足元を確かめながら歩く。
「……母さん」
墓石の前に立ち、そう声に出した。
線香に火をつける。
煙の匂いが、雨の匂いと混じる。
「久しぶり、だね」
返事はない。
分かっている。
それでも、言葉は口から出る。
「……俺、医者になったよ」
静かな声。
誰かに聞かせるためじゃない。
「外科医、やってる」
雨音が、答えの代わりに続く。
「……名医、なんて言われることもある」
少し、苦笑した。
「正直さ、
そう呼ばれると、違和感がある」
墓石の表面を、指でなぞる。
冷たい。
石の感触は、いつも同じだ。
「だって、
救えなかった命、
今も、ちゃんと覚えてるから」
喉が、少し詰まる。
「母さんも、
救えなかった」
言葉にすると、胸がぎゅっと縮む。
何年経っても、この部分だけは、鈍くならない。
「……でもね」
悠真は、息を吸った。
「救えた命も、ある」
あの患者の顔。
「ありがとう」と言った声。
歩いて退院していった背中。
「重なってるんだ。
助けられなかった人と、
助けられた人が」
それは、相殺されない。
どちらも、残る。
「……だから、俺、続けてる」
雨が、少し強くなった。
「止めなかった人が、いたから」
赤い手袋の男の背中が、脳裏に浮かぶ。
無言で、縫合を続けていたあの姿。
「……止めない手を、
今度は、俺が教えてる」
ふっと、息を吐く。
「不思議だよな。
昔は、あんなに怖かったのに」
震える手。
遅いと言われたこと。
孤独を引き受ける覚悟。
「全部、無駄じゃなかった」
墓石の前で、深く頭を下げる。
「……見てて」
声が、少しだけ強くなった。
「俺、まだ縫ってる。
命も、時間も」
立ち上がると、背後から声がした。
「先生?」
振り返る。
若い声。
傘を差した、見覚えのある顔。
「……あ」
研修医だ。
あの、震える手をしていた青年。
「こんなところで……」
「君こそ」
悠真は、少し驚きつつも言った。
「……祖父の墓で」
研修医は、少し照れたように笑った。
「昔、手術してもらったんです。
祖父、先生に」
胸の奥で、何かが静かに動いた。
「……そうか」
「はい。
それで、
俺、医者になりました」
その言葉に、悠真は目を細めた。
「……続けてるな」
「はい」
雨の中、二人は並んで立つ。
「先生」
研修医が、少し迷ってから言う。
「俺、まだ遅いです」
「知ってる」
即答した。
「俺も、そうだった」
「……不安で」
「それも、知ってる」
悠真は、傘の内側で、静かに笑った。
「でもな」
一拍置く。
「手は、時間で育つ」
研修医が、ゆっくりうなずく。
「……はい」
沈黙。
だが、気まずくはない。
「じゃあ、病院で」
研修医が言う。
「ああ」
歩き出しながら、悠真は振り返った。
墓石。
雨。
煙の残り香。
「……行ってくる」
誰にともなく、そう言った。
病院に戻ると、夕方の光が差し込んでいた。
廊下の窓に、オレンジ色が映る。
「朝倉先生、次の手術です」
看護師の声。
「……はい」
白衣を着る。
袖を通す感触。
身体が、自然に前を向く。
手洗い場で、手を洗う。
水の音。
石鹸の匂い。
鏡の中の自分と、目が合う。
「……まだ、やるか」
小さく呟く。
返事はない。
だが、手は動く。
手術室のドアが開く。
冷たい空気。
変わらない匂い。
「先生、お願いします」
「……始めよう」
メスを受け取る。
冷たい金属。
昔ほど、震えはない。
だが、消えてはいない。
それでいい。
切る。
整える。
縫う。
つなぐ。
「……順調です」
助手の声。
「ああ」
短く答える。
この瞬間、
称賛も、肩書きも、関係ない。
あるのは、
目の前の命と、
止めない手だけだ。
縫合が終わる。
最後の結び目。
「……終わり」
息を吐く。
少年だった彼は、
もう少年ではない。
だが、
あの夜の記憶は、
今も、手の中にある。
それは、重荷じゃない。
道しるべだ。
縫い目の先へ。
時間の先へ。
悠真は、今日もまた、
静かに、
命をつないでいた。
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