第11話|縫い目の先へ

第11話|縫い目の先へ


 手術室の空気は、昔と変わらない。

 冷たく、乾いていて、集中すると音が消える。

 換気の低い唸り。

 モニターの電子音。

 消毒液の匂いが、鼻の奥に残る。


「……先生」


 若い研修医の声が、少し震えた。


 朝倉悠真は、術野から目を離さずに言う。


「どうした」


「……縫合、入ってもいいですか」


 その言葉の裏にあるものが、手に取るように分かった。

 やりたい。

 でも、怖い。

 失敗したくない。

 止めたくない。


「……いいよ」


 短く答えると、研修医が小さく息を吸ったのが分かった。


 手袋越しに見える指先が、わずかに震えている。

 糸を持つ手が、空中で一瞬だけ迷う。


 ——ああ。


 悠真は、胸の奥で思った。


 昔の自分だ。


 初めて患者に触れた日。

 「優しい。でも遅い」と言われたあの声。

 夜明け前の病棟で、トイレの冷たい壁にもたれた夜。

 初執刀で、震えながらメスを入れた感触。


 すべてが、今、この手の震えに重なる。


「……焦るな」


 悠真は、声のトーンを落とした。

 怒気も、急かしも、そこにはない。


「深呼吸しろ。

 縫うのは、速さじゃない。

 順番だ」


「……はい」


 研修医の喉が、こくりと動く。


「針の向き、いい。

 今の角度、覚えろ」


 針が皮膚に入る。

 わずかな抵抗。

 糸が通る音が、指先に伝わる。


「……っ」


 研修医の肩が、少しだけ強張った。


「力、入れすぎ」


 悠真は、すぐ横で手を添える。

 触れない。

 触れないが、距離は近い。


「組織は、引っ張ると壊れる。

 “戻ろうとする力”に、任せろ」


 研修医が、言われた通りに手を緩める。

 糸が、自然に締まる。


「……あ」


 小さな声が漏れた。


「そうだ」


 悠真は、うなずいた。


 モニターの中で、縫合線が整っていく。

 派手さはない。

 だが、確実に“戻る道”が作られている。


「先生……」


 研修医が、ためらいがちに言う。


「俺、向いてますか」


 その問いに、悠真の胸が、ほんの少し痛んだ。

 何度も、自分が自分に投げた問いだ。


「……分からない」


 正直に言った。


 研修医が、驚いた顔をする。


「分からない。

 今の段階じゃ、誰にも分からない」


 糸を切る音が、静かに響く。


「でもな」


 悠真は、術野から目を離さず続けた。


「震える手で、逃げなかった。

 それは、才能だ」


 研修医の目が、少し潤んだのが見えた。


「……ありがとうございます」


「礼を言うな。

 続けろ」


 縫合が終わる。

 最後の結び目が、きゅっと締まる。


「……終わりです」


 研修医の声は、最初より少し低く、安定していた。


「お疲れ」


 看護師が言う。

 ガウンを脱ぐ音。

 手袋を外す、湿った感触。


 手術室のドアを出ると、廊下の光が眩しい。

 白衣の袖を通る風が、汗を冷ます。


「……先生」


 研修医が、少し後ろから声をかける。


「俺、今日……手、止めませんでした」


 その言葉に、悠真は立ち止まった。


 振り返り、研修医を見る。

 不安も、誇りも、まだ混ざった顔。


「……そうだな」


 悠真は、静かに言った。


「それでいい」


 一瞬、言葉を選び、続ける。


「手はな、

 時間で育つ」


 研修医は、ゆっくりうなずいた。


「今日できなくてもいい。

 今日、震えてもいい。

 でも、明日も、また手を出せ」


 その言葉は、

 かつて自分が欲しかった言葉でもあった。


 研修医が去ったあと、

 悠真は一人、廊下の窓に立つ。


 外は、夕暮れだった。

 オレンジ色の光が、病院の壁を染めている。


 ふと、ガラスに映る自分の手を見る。

 大きくなった。

 傷も、しわも、増えた。


 あの夜、

 赤い手袋の男を見上げていた少年の手とは、違う。


「……つないでるな」


 誰にでもなく、呟く。


 完璧じゃない。

 救えない命も、今もある。

 それでも、

 縫って、結んで、次へ渡す。


 縫い目の先には、

 いつも未来があるわけじゃない。

 だが、可能性は残せる。


 少年だった彼は、

 今、確かに、

 命をつなぐ人になっていた。


 そしてその手は、

 次の“少年”へと、

 静かに受け渡されていく。


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