第10話|名医と呼ばれる日

第10話|名医と呼ばれる日


 学会場は、冷房が効きすぎていた。

 スーツの内側で、肌がひやりとする。

 スポットライトの熱と、空調の冷気が、身体の中でせめぎ合っていた。


「次の演者は――朝倉悠真先生」


 司会の声が、マイク越しに広がる。

 ざわめき。椅子の軋む音。資料をめくる紙の音。

 悠真は、一度だけ深く息を吸った。


「……行きます」


 誰に言ったのでもない。

 自分の中の、震えに言った。


 壇上に立つ。

 視界の先には、無数の顔。

 だが、はっきりとは見えない。

 強い光の向こう側は、影になる。


「本日は、重度の肝門部胆管癌に対する新しいアプローチについて――」


 自分の声が、思ったより落ち着いて聞こえた。

 スライドが切り替わる。

 血管の走行。

 切開ライン。

 再建の手順。


 頭の中で、あの日の手術室が、正確に再生される。


 出血。

 予想外の癒着。

 一瞬の判断。

 「いける」と思った、あの感触。


「……ここで、通常であれば断念します」


 会場が、静かになる。


「ですが、この患者さんは、まだ生きたいと言った」


 言った瞬間、喉の奥が、少しだけ詰まった。


「だから、私は――切りました」


 切った。

 壊すためじゃない。

 つなぐために。


 質疑応答が始まる。


「リスクは高すぎませんか?」

「再現性は?」

「若手には勧められないのでは?」


 矢継ぎ早に飛ぶ質問。

 鋭い。

 だが、攻撃ではない。

 同じ場所に立つ人間たちの、真剣な問いだ。


「確かに、万人向けではありません」


 悠真は、ゆっくり答えた。


「ですが、“できない”と判断する前に、

 やるべき準備と、想定と、覚悟があります」


 覚悟。

 その言葉が、会場に落ちる。


 拍手が起きた。

 最初はまばらで、やがて大きくなる。


 壇上を降りると、何人もの人に声をかけられた。


「素晴らしい発表でした」

「参考になります」

「一緒に研究しませんか」


 名刺が差し出される。

 紙の感触。

 インクの匂い。


「ありがとうございます」


 何度も、同じ言葉を返す。

 けれど、胸の奥は、不思議と静かだった。


 翌日。

 病院の廊下が、いつもより騒がしい。


「朝倉先生、見ましたよ!」

「ニュース、載ってました!」


 看護師が、スマートフォンを見せてくる。


 画面には、見慣れない自分の顔。

 真面目そうに、少し硬い表情。


――日本でも有数の外科医。


 大きな文字が、踊っている。


「……大げさですね」


 そう言うと、周囲が笑った。


「何言ってるんですか。

 あの手術、普通は誰もやりませんよ」


「患者さん、助かりましたしね」


 “助かった”。

 その言葉が、胸に触れる。


「……はい」


 短く答え、悠真は歩き出した。


 称賛は、背中に残る。

 だが、前には持っていけない。


 病室の前で、足が止まった。

 例の患者だ。

 あの難手術を受けた人。


「失礼します」


 カーテンを引くと、

 痩せた身体が、ベッドに横たわっている。

 だが、顔色は前よりずっといい。


「あ……先生」


 患者が、ゆっくり笑った。


「今日、歩けましたよ」


「……それは、よかった」


 その一言で、胸の奥が、少しだけ緩んだ。


「痛みは?」

「あります。でも……生きてる感じがします」


 その言葉に、悠真は返す言葉を失った。


「……先生」


 患者が、真剣な顔になる。


「手術の前、

 “助からないかもしれない”って、言いましたよね」


「……はい」


「でも、目、逸らさなかった」


 その記憶が、はっきりと蘇る。

 ベッドサイド。

 覚悟を問う沈黙。


「だから、任せようって思ったんです」


 悠真の喉が、きゅっと鳴った。


「……ありがとうございます」


 患者は、首を振った。


「こちらこそです。

 先生が切ってくれたから、

 今、こうして話せてる」


 “切ってくれた”。


 その言葉が、胸の底で、静かに響いた。


 病室を出ると、

 窓の外が、やけに明るかった。


 ふと、母の顔が浮かぶ。

 雨の夜。

 冷たいアスファルト。

 赤い手袋の男。


 助けられなかった命。

 どれだけ手を尽くしても、届かなかった命。


「……母さん」


 声に出すと、少しだけ風が入った。


 あの夜、

 誰かが、確かに、止めない手で縫っていた。

 それでも、母は帰ってこなかった。


 だが、今日は違う。

 今日は、確かに、つなげた命がある。


 助けられなかった過去と、

 救えた現在が、

 胸の中で、重なる。


 どちらも、消えない。

 消えないからこそ、

 手は、軽くならない。


「……名医、か」


 廊下の窓に映る自分に、そう呟く。


 違う。

 自分は、ただの外科医だ。


 切って、

 迷って、

 それでも、つなぐ人間。


 ナースステーションから、声が飛ぶ。


「朝倉先生、次の患者さん、来てます!」


「……はい」


 今度の“はい”は、

 拍手よりも、記事よりも、

 ずっと重く、ずっと確かだった。


 悠真は、歩き出す。

 称賛ではなく、

 一人一人の顔の方へ。


 名医と呼ばれる日。

 その実感は、

 静かに、患者の呼吸と重なっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る