第9話|技術と孤独

第9話|技術と孤独


 腕は、確かに上がっていた。


「朝倉、今の剥離、きれいだったな」


 手術室を出た廊下で、指導医がそう言った。

 軽い調子だったが、その一言は、評価だった。

 褒め言葉に慣れていないわけじゃない。

 けれど、最近はそれを聞いても、胸が大きく跳ねなくなっていた。


「ありがとうございます」


 そう答えながら、悠真は手を洗う。

 蛇口から流れる水は、いつもよりぬるく感じた。

 指先に残る感触。

 組織の抵抗、糸を引いたときの張り。

 それらは、確実に身体の中に蓄積されている。


 ——上手くなっている。


 それは、疑いようのない事実だった。


 夜の病院は、静かだ。

 昼間の喧騒が嘘みたいに、音が間引かれている。

 エレベーターの到着音。

 遠くで鳴るナースコール。

 誰かの足音。


 悠真は、当直室の簡易ベッドに腰を下ろした。

 スマートフォンを見る。

 通知は、ほとんどない。


 昔は、違った。

 研修医になりたての頃は、同期と愚痴を言い合った。

 飲みに行った。

 笑った。

 眠い目をこすりながら、くだらない話をした。


 今は、誰も誘わない。

 誘われることも、ほとんどない。


「……まあ、そうだよな」


 悠真は、小さく呟いた。


 手術が長引けば、約束は守れない。

 急変があれば、帰れない。

 休日は、勉強か、当直か、寝て終わる。


「彼女、できた?」


 いつだったか、同期に聞かれた。


「……ない」


「外科だもんな」


 悪意はなかった。

 ただの事実確認だった。


 家庭を持つ先輩は、少ない。

 持っていても、どこか無理をしている。


「パパ、またいないの?」


 そんな言葉を、聞かせたくない。

 聞かれる未来が、はっきり想像できてしまう。


 病院の屋上に出ると、夜風が頬を撫でた。

 都会の灯りが、遠くまで続いている。

 無数の窓の一つ一つに、別の人生がある。


「……この人生で、いいのか」


 問いは、いつも同じだ。

 答えは、まだ出ない。


 手術中は、考えない。

 考えられない。

 患者の体が、すべてだからだ。


 だが、こうして一人になると、

 問いが、静かに戻ってくる。


「……俺、何と引き換えに、ここにいるんだ」


 技術。

 評価。

 信頼。


 その代わりに、

 時間。

 人との距離。

 当たり前の生活。


 失っているものを数え始めると、

 止まらなくなる。


「……朝倉」


 背後から声がした。


 振り向くと、恩師が立っていた。

 白衣の上に、古びたカーディガンを羽織っている。

 もう現役の執刀医ではないが、

 今も病院に残り、後進を見ている人だ。


「こんな時間に、どうした」


「……眠れなくて」


 正直に言うと、恩師は鼻で笑った。


「外科医で、よく眠れるやつなんて、見たことない」


 二人で、フェンスにもたれた。

 風が、髪を揺らす。


「腕、上がったな」


 恩師は、夜景を見たまま言った。


「……ありがとうございます」


「謙遜するな。

 手を見れば分かる」


 そう言って、悠真の手を見る。

 何も触れない。

 ただ、見るだけだ。


「……なあ」


 恩師が、ふっと息を吐いた。


「最近、顔が前より静かだ」


「……静か?」


「ああ。

 昔は、もっと迷いが表に出てた」


 悠真は、答えなかった。

 図星だったからだ。


「孤独、感じてるだろ」


 恩師は、断定する。


「……はい」


 否定しなかった。

 否定できなかった。


「外科医はな」


 恩師は、少し間を置いて言った。


「孤独を引き受ける職業だ」


 その言葉が、夜風よりも冷たく、

 しかし、はっきりと胸に届いた。


「手術台の前では、一人だ。

 決断するのも、一人。

 成功しても、失敗しても、

 最終的に背負うのは、一人だ」


 悠真は、思い出していた。

 初執刀の日。

 震える手。

 「逃げなかった」と言われた言葉。


「あのときから、

 お前はもう、こっち側に来てる」


「……戻れない、ですか」


 恩師は、首を横に振った。


「戻る必要はない。

 だが、覚悟はいる」


 街の光が、フェンスの隙間で揺れる。


「孤独を、間違えるな」


 恩師は続けた。


「孤独は、罰じゃない。

 責任の裏返しだ」


 その言葉に、悠真の胸が、じわっと熱くなる。


「誰にも代われない場所に立つ。

 それが、お前の仕事だ」


 沈黙が、二人の間に落ちた。

 だが、重くはなかった。


「……この人生で、いいんでしょうか」


 悠真は、初めて口にした。


 恩師は、少しだけ笑った。


「いいかどうかは、

 最後までやったやつにしか、分からん」


 そして、ぽつりと付け加える。


「少なくとも、

 逃げて選んだ人生じゃない」


 その一言で、胸の奥に溜まっていたものが、

 少しだけほどけた。


 当直室に戻る。

 簡易ベッドに横になる。

 天井の染みを見つめる。


 孤独は、消えない。

 だが、名前がついた。


 ——引き受けるもの。


 目を閉じると、

 今日の手術の映像が浮かぶ。

 切って、整えて、縫って、つなぐ。


 誰にも見えないところで、

 誰かの人生が、確かに続いている。


「……それでいい」


 小さく呟く。


 孤独を抱えたままでも、

 手は、明日も動く。


 悠真は、ゆっくりと眠りに落ちた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る