第8話|切るという決断
第8話|切るという決断
外科のカンファレンス室は、空気が固い。
ホワイトボードの黒い線。
プロジェクターの光。
カチカチ、と時計の針が鳴る音。
誰かが開けた缶コーヒーの甘い匂いが、なぜか場違いに漂っていた。
「朝倉。ほんとに外科行くのか」
同期の声は、半分冗談で、半分本気だった。
笑っているのに、目だけが心配している。
「……行く」
悠真は短く答えた。
喉の奥が乾いている。
それでも“行く”と言うとき、舌は妙に重くならなかった。
「やめとけって。外科はさ……」
別の同期が手を振った。
「過酷だし、続かない。
睡眠なんてないし、結婚も、人生も、持ってかれるぞ」
「それにさ」
誰かが、声を落とした。
「メンタル、削れる。
救えなかったら、ずっと残る」
悠真の胸の奥で、何かが小さく鳴った。
残る。
救えなかった命は、消えない。
第6話の夜のトイレの匂いが、一瞬で蘇る。
胃液の酸っぱさ。
冷たいタイル。
嗚咽を飲み込む喉の痛み。
「……残る」
悠真は、思わず呟いた。
「残るよ。だから」
同期が眉を上げる。
「だから、やめとけって言ってんの」
悠真は首を振った。
言葉を探す。
自分の中にあるものを、ちゃんと外に出す言葉を。
「……残るから、やる」
沈黙が落ちた。
カンファ室の時計の音が、急に大きくなる。
「何それ」
誰かが笑った。
乾いた笑い。
馬鹿にしているというより、理解できない笑い。
悠真は笑わなかった。
笑えなかった。
外科を選ぶ理由は、説明できる。
でも、説明した瞬間に軽くなる気がした。
――あの赤い手袋の男の背中。
――保健室で聞いた「続けられる人が、なるの」。
――「君の手は優しい。でも遅い」。
――救えなかった夜と、ありがとうと言われた朝。
全部が、今の自分の手の中にある。
それを、言葉にして切り売りしたくなかった。
「……朝倉くん」
指導医が入ってきた。
背が高い。
マスクを顎にかけ、カルテを片手に持っている。
「お前、今日、初執刀だ」
心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
「……はい」
返事はした。
だが、指先が冷たくなるのが分かった。
「大丈夫ですか?」
看護師が、そっと聞いてくる。
悠真は、微かに頷いた。
大丈夫、という言葉は、まだ怖い。
だから、頷きで済ませた。
手術室のドアを開けると、空気が違う。
冷たい。乾いている。
消毒液の匂いが、鼻の奥を刺す。
そして、機械の低い唸り。
換気の音が、一定のリズムで流れている。
「患者搬入」
看護師の声。
ベッドが滑り込む。
その上に、眠っている人間がいる。
麻酔で意識はない。
けれど、生きている。
胸が、ゆっくり上下している。
人工呼吸器の音が、規則正しく鳴る。
「術式は確認したな」
指導医が言う。
手袋をはめながら、悠真を見る。
「はい」
昨日の夜、手順は頭の中で何度も回した。
切開線。剥離。血管処理。縫合。
失敗のパターンも、可能な限り想定した。
「……緊張してる?」
麻酔科医が、冗談めかして言った。
「……してます」
正直に言うと、笑いが返ってきた。
それが、少しだけ救いだった。
完璧な人間はいない。
ここにいる誰もが、怖い。
「朝倉」
指導医が、低く言った。
「“切る”ってのはな、怖い。
だが、怖いままやれ」
悠真は、喉を鳴らした。
「はい」
消毒された皮膚は、独特の色をしている。
黄色っぽく、つるりとして、冷たい光を返す。
「メス」
看護師が、手のひらに金属を置く。
冷たい。
冷たさが、手袋越しに骨まで届く。
メスを握った瞬間、手が震えた。
ほんのわずか。
だが、確かに震えた。
「……見えるか」
指導医が、悠真の手元を見る。
「はい」
見える。
そして、見えすぎる。
皮膚のきめ。
薄い血管の影。
自分の呼吸で、刃先が微かに揺れる。
――切ったら、戻れない。
その感覚が、胸を締めつける。
「……行け」
指導医の声が、背中を押した。
押すというより、落とす声だった。
崖から落ちるしかない声。
刃先が皮膚に触れる。
抵抗。
ほんの少しの抵抗。
そして――
すっと入る。
切開線が開く。
赤が見える。
血の匂いは、まだ強くない。
でも、空気が変わる。
体の内側が、外に触れた瞬間の、濃い匂い。
悠真の胃が、ひゅっと縮んだ。
だが、手は止めなかった。
「……いい。続けろ」
指導医の声が、すぐ後ろにある。
「鉗子」
悠真が言うと、看護師が即座に渡す。
金属の重さ。
カチン、と噛み合う音。
剥離。
血管。
慎重に、でも遅くならないように。
“優しい。でも遅い”
その言葉が、耳の奥で鳴る。
悠真は、意識して速度を上げた。
怖い。
怖いのに、速度を上げる。
それは、矛盾じゃない。
外科医は、怖いまま進む仕事だ。
「止血」
指導医が言う。
出血点。
小さく、しかし確かに赤が溢れる。
悠真の指が、迷いかけた。
一瞬だけ、時間が伸びる。
その瞬間、保健室の声が蘇った。
――続けられる人が、なるの。
続ける。
止めない。
この手を、止めない。
「……圧迫」
悠真は言った。
ガーゼを当て、吸引を頼む。
落ち着く。
血が引く。
「……そうだ」
指導医の声が、少し柔らかくなる。
「今のは、正しい」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
それでも、まだ怖い。
怖さは消えない。
消えないまま、進む。
手術は終わった。
縫合糸を引く。
結び目を作る。
糸が締まる感触が、指先に残る。
最後の糸を切った瞬間、
悠真は、息を吐いた。
肺の奥まで空気が入るのを、久しぶりに感じた。
「……お疲れ」
看護師が言う。
その声が、妙に優しい。
手袋を外す。
手のひらは汗で湿っている。
皮膚が、ふやけて白くなっている。
指導医が、悠真の肩を軽く叩いた。
「震えてたな」
悠真は、顔が熱くなる。
「……はい」
「でも、逃げなかった」
その一言が、胸の底に沈んで、重く光った。
廊下に出ると、窓の外が明るい。
空が、朝の色になっている。
悠真は、ガラスに映る自分の白衣を見た。
白衣の向こう側に、赤がある。
赤の向こう側に、人がいる。
「……切るって」
誰にでもなく呟く。
「壊すことじゃない」
切って、見て、整えて、縫って、つなぐ。
戻れない場所に、もう一度道を作る。
それが、外科だ。
メスを持つ手は、まだ震える。
でも、震えながらでも、止めない。
悠真は、もう一度、手を握りしめた。
手の中に残る、冷たい金属の感触。
そして、つないだ結び目の重さ。
——この手で、つなぐ。
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