第7話|メスを置く日
第7話|メスを置く日
その手術は、予定より三時間長引いた。
モニターの中で、血管が蛇のようにうねっている。
出血点は小さい。
だが、位置が悪い。
「吸引」
「はい」
「糸、細いの」
「4-0です」
淡々とした声が、手術室に落ちる。
時計の針は、もう夜を回っていた。
悠真は助手として立っていた。
足の裏が、じんじんと痺れている。
腰が痛い。
首の後ろが、重い。
それでも、目は逸らさない。
執刀医の手は、速く、正確だった。
迷いがない。
まさに「外科医の手」だ。
——自分は、ここに立てるだろうか。
その問いが、ふいに胸に浮かんだ。
立てない、とは思わない。
努力すれば、近づけるだろう。
だが——
「……朝倉」
執刀医が言った。
「次、君がやってみろ」
心臓が、強く打った。
「……はい」
器具を受け取る。
手袋の中で、指が汗ばむ。
モニターに映る血管。
位置関係。
圧。
角度。
頭の中で、何度もシミュレーションしてきた。
知識はある。
理解もしている。
——だが。
刃先が、わずかに遅れた。
「……違う」
執刀医の声が、即座に落ちる。
「もっと早く。
そこは“考える場所”じゃない」
悠真は、息を止めた。
分かっている。
理屈では、完璧に。
だが、身体が、
“もし失敗したら”という想像を、捨てきれない。
次の瞬間、出血量が増えた。
「吸引!」
「はい!」
「圧迫!」
執刀医が即座に介入する。
場は持ち直した。
患者は助かった。
——結果は、成功だ。
だが。
手術が終わり、ガウンを脱いだとき、
悠真の背中は、汗で冷え切っていた。
「……すみません」
控室で、そう言うと、執刀医はタオルで手を拭きながら言った。
「謝るな。
お前の判断は、間違っていない」
一拍。
「だが、遅い」
第5話と、同じ言葉。
「優しさがある。
だから、最後の一線で、手が止まる」
悠真は、何も言えなかった。
「外科医はな」
執刀医は続けた。
「“考える時間を、手術前に全部使い切っている人間”だ」
その言葉が、胸に落ちた。
——全部、使い切っている。
夜、病院の屋上に出た。
冷たい風が、頬を打つ。
街の灯りが、下に広がっている。
あの中のどこかで、今も誰かが倒れ、
誰かが運ばれ、
誰かが、決断を迫られている。
「……止めない手」
呟く。
自分は、止めない努力をしてきた。
机に向かい、
眠らず、
逃げず。
だが、今日、はっきり分かった。
自分は、“止めない覚悟”を持ち続けられる人間ではない。
それは、弱さではない。
向き不向きだ。
保健室の養護教諭の声が、ふいに蘇る。
――続けられる人が、なるの。
続けられる、とは何か。
メスを握り続けることか。
それとも——
命を救う仕組みを、考え続けることか。
悠真は、初めて、
“自分が外科医でない未来”を、恐怖ではなく、
選択肢として想像した。
翌週、工学部の研究棟を訪れた。
白衣の種類が違う。
機械の匂い。
電子音。
コードが走るモニター。
「人体モデルを使った血流シミュレーションです」
研究員が説明する。
画面の中で、血管が再現され、
詰まりが、可視化されていく。
悠真の背中に、電流が走った。
「……これなら」
声が、自然に出た。
「これなら、
手が震える前に、失敗できる」
研究員が首を傾げる。
「失敗?」
「はい。
何万回でも」
夜、ノートを開いた。
そこに、初めて医療と数学が並んだ。
縫合糸の結び目。
血流の分岐。
判断の遅れが生むリスク。
「……メスを置く」
それは、逃げじゃない。
第3話で、教わったことだ。
「止めない場所を、変えるだけだ」
悠真は、ペンを走らせた。
赤い手袋の男のように、
現場で手を止めない人間を、
“支える側”になるために。
夜明け前、窓の外が白み始める。
悠真は、静かに決めていた。
——自分は、
メスを持たない外科医になる。
それは、
最も外科医の本質に忠実な、選択だった。
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