第6話|夜明け前の病棟
第6話|夜明け前の病棟
夜の病棟には、昼と違う匂いがある。
消毒液の鋭さの奥に、汗と薬と、布団の湿り気。
人が眠り、弱り、祈っている匂い。
蛍光灯は落とされ、廊下の足元灯だけが点々と光っている。
その光が、床のワックスに反射して、薄い水面みたいに揺れて見えた。
「朝倉、まだいけるか」
ナースステーションで、先輩研修医が言う。
笑っているのに、目の下に濃い影がある。
「……いけます」
声がかすれていた。
舌が乾いて、唾が粘る。
いける、という言葉だけが、体の外に出ていく。
「じゃあ、救急から一本。来るぞ」
「……はい」
時計を見る。
午前二時。
勤務開始から、もう二十八時間。
目の奥が熱いのに、涙は出ない。
代わりに、吐き気が、喉の奥でじわじわ膨らんでいる。
救急外来のドアが開くと、冷たい空気が流れ込んだ。
外の冬の匂い。濡れたコートの匂い。
それに混じって、血とアルコールの匂いがする。
「交通事故! 男性六十代! 意識レベル低下!」
「血圧、低い!」
「ルート取れません!」
声が飛ぶ。
悠真の頭は、ふわふわしているのに、身体だけが勝手に動いた。
「……酸素、お願いします」
「了解」
「採血、ここ!」
自分の声が、遠くから聞こえる。
声の主が自分だと、半拍遅れて理解する。
「先生……助かる?」
担架の横で、女性が泣きながら縋りついた。
奥さんだろう。
手が、冷たく震えている。
「……今、やってます」
“助かる”と、言えなかった。
言った瞬間、それが嘘になる気がしたから。
でも、“助からない”も言えない。
そんな権利はない。
「お願い……お願い……」
女性の泣き声が、耳の奥で針みたいに刺さる。
眠気が一瞬で吹き飛び、代わりに胸が焼けた。
「……中へ」
指導医が言った。
声が低い。
決断の声。
処置室へ。
ライトが点く。
眩しさで、視界が白くなる。
「血ガス!」
「はい!」
「輸血準備!」
「はい!」
悠真は、針を持つ。
手が震えた。
第5話の震えとは違う。
疲労で、筋肉が勝手に揺れる震えだ。
「……くそ」
針先が、うまく入らない。
皮膚が硬い。血管が逃げる。
「朝倉!」
指導医の声が飛ぶ。
「……すみません!」
その瞬間、吐き気が一気に込み上げた。
胃がねじれる。
「代わる」
指導医が手を出す。
その手は速い。
迷いがない。
点滴が繋がり、液体が落ちていく。
それを見て、悠真の胸が痛んだ。
――自分は、邪魔だ。
心電図が鳴り方を変えた。
ピッ、ピッ、ピッ……
速くなる。
そして――
ピ――――
「……心停止!」
声が、誰かの喉から裂けた。
「CPR!」
「アドレナリン!」
「除細動、準備!」
悠真は、胸骨圧迫に入った。
両手を重ねる。
押す。
離す。
押す。
離す。
汗が、額から目に落ちる。
塩辛い。
視界が滲む。
「……戻れ……!」
自分でも気づかないうちに、声が出ていた。
だが、戻らない。
指導医の「……時間だ」という低い声が、最後に落ちた。
室内の空気が、急に重くなる。
誰も動かない。
機械の音だけが、冷たく響く。
悠真の手のひらには、まだ圧迫の感触が残っていた。
骨の硬さ。
押すたびに沈む、肉の抵抗。
「……ご家族に説明する」
指導医が言う。
悠真は、立っていられなかった。
膝が、抜けそうだった。
廊下へ出た瞬間、吐き気が爆発した。
悠真はトイレに駆け込み、便器に吐いた。
胃液の酸っぱい匂いが、鼻を焼く。
「……っ、うぇ……」
涙が出た。
吐いたからじゃない。
助けられなかったからだ。
あの女性の泣き声が、まだ耳に残っている。
個室のドアを閉め、悠真は壁にもたれた。
額が冷たいタイルに触れる。
「……医者になりたいって」
声が震える。
「……言ったくせに」
膝に力が入らない。
腕が重い。
頭が回らない。
それでも、時間だけは進む。
「……朝倉、いるか」
外から声がした。
看護師だ。
「……はい」
「さっきの奥さん、今、落ち着いた。
でもね、あなたが胸骨圧迫してたの、見てたよ」
悠真の喉が詰まった。
「……俺、何も……」
「違う」
看護師の声が、きっぱりする。
「あなた、逃げなかった」
その言葉が、痛い。
褒められているのに、痛い。
「……でも、死んだ」
絞り出すと、声がかすれた。
「うん」
肯定された。
その“うん”が、救いだった。
嘘をつかない人の“うん”。
「でもね、死んだのはあなたのせいじゃない。
あなたが止めたわけじゃない」
悠真は、唇を噛んだ。
鉄の味がする気がした。
でも、今は血じゃなくて、ただの錯覚だ。
「……出ておいで。次がある」
次がある。
その言葉が残酷で、でも現実だった。
洗面台で顔を洗う。
冷たい水が頬を刺す。
鏡の中の自分は、目が赤く、唇が青白い。
誰だ、これ。
病棟に戻ると、夜明け前の薄い青が、窓の外ににじんでいた。
空が、まだ決めきれない色をしている。
夜と朝の境界。
ナースステーションで、記録を書こうとすると、字が歪んだ。
ペンが震える。
視界がぼやける。
「……朝倉先生」
声がした。
病室の前に、若い女性が立っていた。
妊婦ではない。
点滴のスタンドを押しながら、歩いている。
「……昨日、私、救急で運ばれてきたんです」
悠真は、思い出そうとして、頭がうまく動かない。
でも、顔は覚えている。
腹痛。急性腹症疑い。
検査を回して、手術にはならず、落ち着いた。
「あ……はい」
「先生が、ずっと声かけてくれた」
女性が笑った。
笑い方が弱い。
でも、確かに笑っている。
「大丈夫ですよ、って。
怖いですよね、って」
悠真の胸が、じわっと熱くなる。
そんなこと、言ったか。
言った気がする。
たぶん、言った。
「……覚えてない」
正直に言うと、女性は首を振った。
「いいんです。私は覚えてるから」
そして、少しだけ頭を下げた。
「……ありがとう」
その二文字が、悠真の胸に落ちた。
落ちて、沈んで、底で光った。
助けられなかった命がある。
それは消えない。
でも、助かった命もある。
その人が、ここに立っている。
窓の外が、少し明るくなる。
病棟のガラスに、朝の光が薄く伸びる。
「……ありがとうございます」
悠真は、かすれた声で言った。
誰に言ったのか分からない。
女性に。
自分に。
夜明けに。
立ち上がる。
足がまだ重い。
胃がまだむかむかする。
でも、立てる。
「朝倉、次、回診だ」
先輩が呼ぶ。
「……はい」
今度の“はい”は、昨日までより少しだけ、太かった。
夜明け前の病棟で、
悠真はもう一度、手を止めないことを選んだ。
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