第5話|初めての“手”
第5話|初めての“手”
病棟の朝は、音が多い。
ナースステーションの電話。
カートの車輪が床を擦る音。
誰かの咳。
点滴のスタンドがぶつかる、軽い金属音。
それらすべてが、悠真の鼓膜を薄く叩いていた。
「……今日から臨床実習です」
白衣の胸ポケットに、名札。
朝倉悠真・医学生。
その文字が、やけに浮いて見える。
「患者さんに触れることもあります。
いいですか、“勉強”じゃありません。
“人”です」
指導医の声は低く、乾いていた。
感情を削ぎ落とした声。
でも、その奥に、張りつめた何かがある。
「はい」
声が少し、上ずった。
病室のドアを開ける。
カーテンの向こうから、生活の匂いがする。
消毒液だけじゃない。
汗の匂い、洗剤の匂い、かすかな加齢臭。
人が生きている匂い。
「失礼します」
声を出した瞬間、自分の声が頼りなく聞こえた。
ベッドの上に、患者がいた。
高齢の男性。
痩せている。
胸が、ゆっくり上下している。
「……ああ」
男が目を開ける。
「先生か?」
一瞬、言葉に詰まった。
「……いえ。医学生です」
「ほう」
男は、少し笑った。
口元の皺が深くなる。
「若いな」
その一言で、心臓が強く鳴った。
若い。
それは、未熟だという意味でもある。
「……お体、触らせていただいてもいいですか」
教科書で覚えた通りの言葉。
でも、舌の上でひっかかる。
「どうぞ」
許可は、あっさり出た。
悠真は、手袋をはめた。
ゴムが皮膚に密着する感触。
パチン、という音が、やけに大きい。
――触る。
それだけなのに、手が震えた。
自分の指先が、勝手に微かに揺れているのが分かる。
止めようとするほど、意識してしまう。
「……深呼吸して」
背後で、指導医が言った。
息を吸う。
吐く。
それでも、震えは消えない。
指先が、患者の胸に触れた。
温かい。
教科書の図とは違う。
数値とも違う。
人の体温だ。
「……冷たい手だな」
患者が、ぽつりと言った。
「す、すみません」
「いいよ。緊張してるんだろ」
その言葉に、少し救われる。
でも、同時に、胸が痛んだ。
緊張している医学生の手を、
この人は受け入れている。
聴診器を当てる。
金属が、皮膚に触れる。
ドクン。
ドクン。
音が、耳に直接流れ込む。
心臓の音。
生きている証拠。
「……聞こえるか」
指導医が聞く。
「……はい」
本当は、よく分からない。
教科書に書いてある“正常音”と、目の前の音が、重ならない。
でも、「分からない」と言うのが怖かった。
診察が終わり、病室を出る。
廊下の冷たい空気に触れて、やっと息ができた。
「……どうだ」
指導医が、立ち止まった。
「……緊張しました」
「それは誰でもだ」
一拍置いて、続ける。
「だが」
その一言で、背筋が伸びた。
「君の手は、優しい」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「でも、遅い」
次の言葉が、容赦なく落ちてきた。
「……遅い、ですか」
「ああ」
指導医は、悠真の手を見る。
「触るまでに時間がかかる。
当てる位置も、迷っている。
それはな、“怖い”からだ」
何も言い返せなかった。
図星だった。
「優しさは悪くない。
だがな」
声が、少し低くなる。
「遅さは、時に命取りだ」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「救急では、震えてる暇はない。
迷ってる暇もない」
赤い手袋の男の背中が、脳裏に浮かぶ。
止めなかった手。
震えなかった手。
「……優しさだけじゃ、守れない」
指導医は、淡々と言った。
悠真は、唇を噛んだ。
鉄の味が、微かにする。
「……すみません」
「謝るな」
即座に返ってきた。
「事実を言っただけだ」
次の病室へ向かう途中、
悠真の視界が、少し滲んだ。
――自分は、向いていないのか。
そう思った瞬間、
第3話の模試結果がよみがえる。
D判定。
才能の壁。
ここでも、同じだ。
午後。
別の患者の診察。
「……失礼します」
声は、まだ硬い。
今度は、女性の患者だった。
中年。
表情が、どこか不安げ。
「……若い先生ね」
そう言われた瞬間、胸が締めつけられる。
「医学生です」
「……そう」
その“間”に、評価が含まれている気がした。
触れる。
また、手が震える。
「……大丈夫?」
患者が、こちらを見る。
「……はい」
でも、“はい”は、相手を安心させるための言葉じゃない。
自分に言い聞かせているだけだ。
指導医が、静かに横から手を出した。
「こうだ」
指導医の手が、患者の体に触れる。
迷いがない。
速い。
でも、乱暴じゃない。
その手を見て、悠真は思った。
――優しい。
――でも、速い。
両立している。
「……分かるか」
「……はい」
本当は、まだ分からない。
でも、目指すものは、はっきり見えた。
診察が終わり、ナースステーションの隅で、悠真は立ち尽くした。
「……俺、向いてないんでしょうか」
思わず、口に出た。
指導医は、カルテから目を離さずに言う。
「向いてないやつはな、
“優しい”なんて言われない」
「……でも、遅い」
「ああ。だから、これからだ」
初めて、指導医がこちらを見た。
「速さは、技術で補える。
判断は、経験で磨ける」
そして、少しだけ間を置く。
「だが、優しさは――
後から身につけるのが、一番難しい」
その言葉で、胸の奥が、ぎゅっと締まった。
夜。
下宿に戻り、手を洗う。
蛇口から流れる水。
手袋はない。
素手だ。
手のひらを見る。
小さな手。
震えた手。
「……この手で」
声が、かすれる。
「……守れるように」
今日の患者の体温。
冷たいと言われた自分の指。
指導医の、迷いのない手。
全部が、手の中に残っている。
優しいだけでは、足りない。
でも、優しさを捨てるわけでもない。
悠真は、ゆっくりと手を握り、開いた。
速くなる。
止めないために。
その覚悟が、初めて、
手に宿った気がした。
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