第4話|白衣の向こう側

第4話|白衣の向こう側


 合格通知は、薄い封筒に入っていた。

 それなのに、悠真の手のひらの上で、石みたいに重かった。


「……おい」


 台所で、父が封筒を指さした。

 炊飯器の湯気が、白く立ちのぼる。味噌汁の匂い。けれどその匂いが、今日はどこか遠い。


「開けろよ」


「……うん」


 指先が、封の糊をなぞる。紙がこすれる音が、耳に響く。

 封を切った瞬間、胸の奥がすっと冷えた。

 怖い。受かっていても怖い。落ちていても怖い。


 白い紙。黒い文字。

 ――合格。

 その二文字が、視界の中心で動かない。


「……受かった」


 声が、自分のものじゃないみたいに薄い。


 父が、息を吐いた。

 短く、でも確かに。


「……そうか」


 それだけだった。

 笑いもしない。泣きもしない。

 けれど、父の手が一瞬だけ震えたのを、悠真は見逃さなかった。


「母さんに……見せたかったな」


 父の声が、少しだけ掠れた。

 悠真の喉がきゅっと狭くなる。


「……うん」


 合格は、終わりじゃない。

 始まりだ。

 でも、始まりの祝い方を、悠真は知らなかった。


 春。

 大学のキャンパスは、桜よりも白かった。

 白衣の白。ポスターの白。蛍光灯の白。

 新入生の群れが、まるで流れ込む水みたいに校舎へ吸い込まれていく。


「朝倉悠真?」


「はい」


 受付で名前を言うと、学生証と分厚いプリントが手渡された。

 紙の角が指に当たって痛い。


「……頑張ろうな」


 隣で、同じく新入生らしい男子が笑って言った。

 笑い方が軽い。けれど目は笑っていない。


「……うん」


 また“うん”だけが口から出る。


 入学式の壇上で、学長が言った。


「君たちは選ばれた者です。誇りを持ちなさい」


 拍手。

 しかしその言葉は、悠真の胸の中で奇妙に空洞を響かせた。

 選ばれた?

 何を基準に?

 人間を救う資格は、点数で測れるのか。


 講義は、始まった瞬間から、容赦がなかった。


「これは必修です。落としたら留年します」


 教授が淡々と言う。

 声は平坦で、まるで天気予報のようだ。


 配られた教科書は、分厚くて、紙の匂いが強い。

 インクの匂い。新しい本の、甘いような、息苦しい匂い。

 ページをめくるたび、文字の海が押し寄せてくる。


「解剖学、組織学、生理学、生化学……覚えるだけだ」


 先輩が、食堂のテーブルで言った。

 カレーの匂いが漂う。誰かの笑い声。食器がぶつかる音。

 日常の音の中で、その言葉だけが冷たく突き出ていた。


「覚えるだけ……」


 悠真は、箸を止めた。


「そう。“理解”とか言ってる暇ない。まず暗記。暗記ができなきゃ、土俵に立てない」


「……人を救うために?」


 ぽろっと、出た。

 自分でも驚くほど素直な問いだった。


 先輩は一瞬黙り、肩をすくめた。


「救いたきゃ、まず試験に受かれ。以上」


 その言葉が、喉に砂を詰め込むみたいに残った。


 夜。

 下宿の部屋は、狭くて、白い壁が近い。

 机のライトを点けると、光の輪がノートの上に落ちる。

 第2話の勉強机とは違う。

 ここには母の気配がない。父の影もない。

 あるのは、ひたすら文字だけだ。


「……骨の名前、筋肉の名前、神経の走行……」


 口に出して覚えようとすると、舌が疲れる。

 喉が乾く。

 水を飲む。

 それでも、文字が頭に入ってこない。


 隣の部屋からは、誰かのタイピング音が聞こえる。

 カタカタカタ。

 規則正しい。焦りが、胸を締める。


「……同じ一年なのに」


 悠真は、自分のノートを見下ろす。

 書いた字が、急に幼く見えた。


 試験。

 答案用紙は、薄くてざらざらしている。

 鉛筆の芯が滑る。

 問題文を読むと、視界の端が暗くなる。


「……これ、やった」


 確かにやった。

 でも、覚えていない。


 隣の席の学生が、迷いなく書いている音が聞こえる。

 シャッ、シャッ、と紙を擦る音。

 それがまるで、メスが皮膚を切る音みたいに聞こえて、背筋が冷えた。


 結果は、掲示板に貼り出された。

 名前の横に点数が並ぶ。

 誰が何点か、全員に見える。


「……これ、いる?」


 悠真は、小さく呟いた。


「競争させないと、伸びないから」


 後ろで誰かが言う。


「人格より点数、って感じだよな」


 笑い声。

 乾いた笑い声。


 廊下の窓から、外を見る。

 青い空。

 その青さが、妙に残酷に見えた。


「人を救いたい」


 悠真は、心の中で言う。

 でも、その言葉は、空気の中でふわりとほどけて消えた。

 何も支えない。

 何も動かさない。

 ただの飾りみたいだった。


 ――こんなはずじゃなかった。


 白衣を着ると、胸ポケットがやけに重い。

 聴診器はまだ入れていないのに。

 白い布が肌に触れる感触が、どこか冷たく、よそよそしい。


「ねえ、朝倉くん」


 同級生の女子が声をかけてくる。

 香水の匂いが少しだけする。新しい靴の音が軽い。


「この前の小テスト、何点?」


「……八十七」


「え、すご。私は七十台。やばい」


 “すごい”と言われても、胸が動かない。

 点数の会話が、まるで天気の話みたいに薄い。

 それなのに、ここではそれがすべてみたいに回っている。


 それでも、日々は進む。

 暗記。試験。掲示。暗記。試験。

 くたびれた脳は、夢の中でも単語を反芻した。


 そして、解剖実習の日が来た。


 実習室の前で、悠真の足が止まった。

 ドアの向こうから、独特の匂いが漏れてくる。

 薬品の匂い。消毒液とは違う。

 甘くて、苦くて、鼻の奥にまとわりつく匂い。


「……入るよ」


 班のリーダー格の学生が言う。

 声が少し硬い。


「うん」


 また“うん”。

 けれど今日は、その“うん”が重い。


 ドアを開けると、空気がひやりと頬に触れた。

 冷房の冷たさじゃない。

 湿り気を含んだ冷たさ。

 天井の蛍光灯が、白く、あまりにも白く、机の上を照らしている。


 白いシーツの下に、ひとつの身体がある。


「……献体された方です」


 教授が言う。


「君たちは、この方から学ぶ。

 敬意を払って扱いなさい」


 敬意。

 その言葉だけが、妙に胸の奥に落ちた。


 悠真は、ゴム手袋をはめた。

 パチン、と音がして、手袋が皮膚に密着する。

 指先が少しだけ鈍くなる。


「……怖い?」


 同級生が小声で聞く。


「……分からない」


 怖い、というより、

 ここにいることが、重い。


 シーツがめくられた。

 肌は、想像していたよりも人間だった。

 冷たい。

 でも、形は確かに“誰か”の形だ。

 顔が見える。まぶたが閉じられている。

 静かだ。

 第1話の嵐みたいな救急室とは違う静けさ。


「……この人、名前、あるんだよな」


 班の誰かが呟く。


「あるよ」


 悠真が、思わず答えた。


「家族もいる。

 この人は、点数じゃない」


 言った瞬間、自分の声が震えているのが分かった。


 メスを握る。

 金属の冷たさが、手袋越しにも伝わる。

 その冷たさが、あの夜の窓の冷たさを思い出させた。


「切開線はここ」


 教授の声。

 淡々としている。


 刃先が皮膚に触れる。

 ほんの少しの抵抗。

 そして、すっと入る。


 その瞬間、悠真の中で、何かが変わった。

 血の匂いはしない。

 叫び声もない。

 拍手もない。

 ただ、目の前にあるのは、重さだ。


 人間の重さ。

 命の重さ。

 それを学ぶという重さ。


「……すごい」


 隣の同級生が呟く。


「何が?」


 悠真は聞き返した。


「人間って……中、こうなってるんだなって」


 悠真は、頷いた。

 頷きながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……派手じゃなくていい」


 口の中で、小さく繰り返す。

 第3話の養護教諭の声が、背中の奥で響いた。


 派手じゃなくていい。

 点数で勝たなくてもいい。

 誰かの命の前で、誠実でいられるなら。


 実習が終わり、手袋を外す。

 手が、少し汗ばんでいた。

 手のひらを見つめる。


 この手は、まだ何も救えない。

 でも、この手で学ぶ。

 この手で続ける。


 廊下に出ると、外の光が眩しかった。

 世界は何事もなかったように動いている。

 けれど悠真の中には、確かに“向こう側”ができていた。


 白衣の向こう側に、

 人間がいる。

 数字じゃない、人間が。


「……やるしかないな」


 悠真は、誰にでもなく呟いた。

 その声は、今までで一番、現実に触れていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る