第3話|はじめての挫折

第3話|はじめての挫折


 校門をくぐった瞬間、空気が違うと分かった。

 同じ制服なのに、歩き方が違う。背筋の伸び方が違う。

 進学校――その言葉が、校舎のコンクリートに染み込んでいるみたいだった。


「朝倉、ここな」


 担任に指示され、悠真は席に座る。

 教室は静かだ。

 静かすぎる。

 私語がないわけじゃない。だが、無駄な音が一切ない。


 カリカリ、という鉛筆の音。

 ページをめくる音。

 時計の秒針の音。


 みんな、すでに「勉強の仕方」を知っている。


「……やっていけるかな」


 喉の奥で、声にならない言葉が転がった。


 最初の小テスト。

 返却は、あっけなかった。


「平均、八十五点。よくできている」


 先生が言う。

 悠真の答案用紙には、七十二点と赤字で書かれていた。


 悪くない。

 中学までは、上位だった。

 でも――


 隣の席の男子が、答案を見て小さく舌打ちする。


「九十二か……ミスった」


 その一言が、胸に刺さった。


「……ミスった?」


 九十二点で、ミス。

 じゃあ、七十二点は何だ。

 失敗? 論外?


 その日から、差ははっきり見えるようになった。

 授業中に一度聞いただけで理解する生徒。

 問題集を一周する前に、解法を掴む生徒。


 悠真は、何度も繰り返す。

 夜遅くまで机に向かう。

 鉛筆を削り、ノートを埋め、ページをめくる。


 それでも、届かない。


「……なんで」


 模試の結果が返ってきた日、指先が冷たくなった。

 偏差値の数字が、はっきりと線を引いている。


 合格可能性:D


 視界が、ぐらりと揺れた。


「朝倉……大丈夫か?」


 友人が声をかけてくる。


「うん」


 まただ。

 この言葉しか、出てこない。


 放課後、校舎の裏で、悠真は答案を握り潰した。

 紙が、くしゃりと音を立てる。


「……医者なんて」


 小さく、吐き捨てる。


「無理なんだよな」


 努力すれば、届くと思っていた。

 机に向かえば、未来は開けると信じていた。


 でも、この場所には、

 努力するのが当たり前の人間しかいない。


 努力の先に、さらに才能がある世界。


 家に帰っても、机に向かえなかった。

 椅子に座ると、息が詰まる。


「……やめようかな」


 医者。

 あの赤い手袋の男。

 縫合糸。


 全部が、遠い。


 その夜、熱が出た。

 身体がだるく、頭が重い。


「……学校、休むか」


 父が言う。


「……行く」


 でも、玄関でふらついた。


「……今日は無理だ」


 保健室に運ばれた。

 白いカーテン。

 消毒液の匂い。


「どうしたの?」


 養護教諭の女性が、穏やかな声で聞く。


「……熱です」


 嘘じゃない。

 でも、本当でもない。


「座って。体温測ろう」


 体温計が、脇に挟まれる。

 少し冷たい。


「三十八度。しんどかったね」


 その言葉に、胸がゆるんだ。

 “しんどい”と、初めて言われた気がした。


 養護教諭は、手際よく額に冷却シートを貼り、水を差し出す。


「ゆっくり飲んで」


 コップを持つ手が、震えた。


「……すみません」


「何が?」


「……迷惑、かけて」


 彼女は首を振った。


「迷惑じゃないよ。ここは、そういう場所」


 カーテン越しに、校庭の音が聞こえる。

 部活の掛け声。

 ボールの弾む音。


「……勉強、つらい?」


 不意に聞かれた。


 悠真は、答えられなかった。

 言葉にしたら、全部崩れそうだったから。


 養護教諭は、無理に待たなかった。

 脈を測り、手首に指を当てる。


 その手は、冷静で、静かだった。

 慌てない。

 焦らない。


「……医療ってね」


 ぽつりと、彼女が言う。


「派手じゃないの。ドラマみたいでもない」


 悠真は、目を閉じたまま聞く。


「目立たない作業の積み重ね。

 熱を測って、脈を見て、水を飲ませて、休ませる」


 指先が、まだ手首に触れている。

 その圧が、ちょうどいい。


「でもね、それで助かる人も、たくさんいる」


 悠真の胸の奥が、微かに動いた。


「……すごくなくても、いいんですか」


 声が、かすれた。


「いいよ」


 即答だった。


「誰かの命を守るのに、派手さはいらない」


 その言葉が、ゆっくりと染みていく。


 赤い手袋の男は、確かに派手じゃなかった。

 叫ばなかった。

 ポーズも取らなかった。


 ただ、手を止めなかった。


「……医者って」


 悠真は、天井を見つめた。


「……すごい人じゃないと、なれないと思ってました」


「ううん」


 養護教諭は、笑った。


「続けられる人が、なるの」


 その言葉で、何かがほどけた。


 模試の紙を、思い出す。

 握り潰した感触。


 失敗じゃない。

 これは、途中だ。


 熱は、夕方には下がった。

 帰り際、養護教諭が言った。


「今日は、ちゃんと休んで。逃げじゃないよ」


 逃げじゃない。

 その言葉を、何度も心の中で繰り返す。


 家に帰ると、机が待っていた。

 でも、すぐには座らなかった。


 窓を開け、冷たい空気を吸う。

 夜の匂い。

 遠くの車の音。


「……派手じゃなくていい」


 小さく、口に出す。


 椅子に座り、鉛筆を取る。

 点数は、すぐには上がらない。

 それでも、続ける。


 悠真は、紙に向かって書き始めた。

 止めないために。


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