第2話|逃げ道のない勉強机

第2話|逃げ道のない勉強机


 母がいなくなってから、家の音が減った。


 朝、目覚まし時計が鳴る。

 ピピピ、という電子音が、やけに部屋に響く。

 以前は、台所から味噌汁の湯気の音や、フライパンが油をはじく音がしていたのに、今はない。


「……起きてるか」


 父の声は、廊下の向こうから聞こえる。

 低くて、短い。


「起きてる」


 悠真は布団の中で答える。

 起きている。でも、起き上がりたくない。

 布団をめくれば、現実が始まってしまうから。


 台所へ行くと、食卓の上に食パンと牛乳が置いてある。

 トーストは焼かれていない。

 父は新聞を読んでいる。

 紙をめくる音だけが、規則正しく続く。


「……焼かないの?」


 言ってから、しまったと思った。

 母がいれば、当たり前に焼いてくれていた言葉だ。


「ああ……すまん」


 父はそう言って立ち上がり、トースターにパンを入れる。

 タイマーを回す音が、妙に大きい。

 チン、と鳴るまで、二人とも黙ったままだ。


 バターは塗らない。

 母の手が触れたケースを見るのが、つらいからだ。


 牛乳を飲むと、冷たさが喉を通って、胸の奥に落ちる。

 味は分からない。

 何を食べても、同じ味がする。


「……学校、行けそうか」


 父が聞く。


「行く」


 行くしかない。

 休んだら、家にいる時間が増える。

 家にいると、母のいない空気が、濃くなる。


 ランドセルを背負うと、肩が重い。

 教科書が増えたわけじゃないのに、重い。


 玄関で靴を履いていると、父が後ろに立った。


「……無理、するな」


 その言葉が、妙に胸に引っかかる。

 無理をしないって、どういうことだろう。

 無理をしなかったら、母は戻ってくるのか。


「……うん」


 そう答えるしかなかった。


 学校は、いつも通りだった。

 いつも通りの校門。

 いつも通りのチャイム。

 いつも通りの教室。


 でも、悠真の席だけ、少し違って見える。


「悠真、大丈夫?」


 隣の席の女子が、そっと聞いてくる。


「うん」


 本当は、何が大丈夫なのか分からない。

 でも、「大丈夫じゃない」と言うと、説明しなければならない。

 説明すると、母がいないことを、もう一度言葉にしなければならない。


 授業中、黒板の文字をノートに写す。

 チョークの粉が舞う。

 白い粉が、母の病院で見たガウンを思い出させる。


 手が止まりそうになる。

 でも、止めない。


 鉛筆を持つ手に、力を入れる。

 ギュッ、と紙に芯が食い込む。


「……悠真」


 先生に名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。


「この問題、分かるか?」


 黒板には、算数の文章題。

 いつもなら、すぐに解ける。


「……はい」


 声が少し震えた。

 答えを言う。

 合っている。


「よし」


 それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 “できた”という感覚。

 それは、母がいなくなってから、初めて掴めた細い糸だった。


 休み時間、友だちが集まってくる。


「なあ、悠真。お母さん、大丈夫なの?」


 一瞬、頭の中が真っ白になる。


「……亡くなった」


 言葉にすると、教室の空気が止まった。


「……え」


「……そうなんだ」


 誰かが、どう声をかけていいか分からずに、視線を逸らす。

 気まずさが、教室に広がる。


 悠真は、机の中からドリルを出した。


「……宿題やるから」


 逃げた。

 でも、逃げ道は、勉強机の上しかない。


 放課後、塾へ行く。

 母が生きていた頃から通っていた塾だ。


「……ああ、悠真くん」


 塾の先生は、少し困った顔をした。


「大変だったね」


「……はい」


 それ以上、何も言わないでくれたのが、ありがたかった。


 問題集を開く。

 数字と文字が、規則正しく並んでいる。

 感情が入り込む余地がない。

 だから、安心できる。


「ねえ、悠真。将来、何になりたい?」


 授業の合間、先生が何気なく聞いた。


 その瞬間、病院の匂いが鼻に蘇った。

 赤い手袋。

 無言で縫う手。


「……医者」


 口から、自然に出た。


「医者?」


 後ろの席の子が、くすっと笑った。


「悠真が? 無理じゃない?」

「医者って、頭めちゃくちゃ良くないとなれないんだぞ」


 笑い声が、小さく広がる。


 耳が熱くなる。

 心臓が、どくんと強く鳴る。


「……無理かどうかは、まだ分からないだろ」


 先生が言った。


「でもね、医者は大変だよ。勉強も長いし、お金もかかる。覚悟がいる」


「……覚悟なら、ある」


 自分でも驚くくらい、はっきり言えた。


 何の覚悟かは、分からない。

 でも、あの処置室の前で待っていた時間を、無駄にしたくなかった。


 家に帰ると、父はまだ仕事から戻っていなかった。

 電気をつけると、静けさが広がる。


 机に座る。

 母が選んでくれた学習机。

 角が少し欠けている。

 引き出しの中には、消しゴムの削りカス。


 教科書を開く。

 ノートを広げる。

 鉛筆を持つ。


 ふと、手が止まった。


 この机に向かって、何時間も勉強したら、母は帰ってくるだろうか。

 答えは、分かっている。


「……それでも」


 悠真は、声に出した。


「それでも、やる」


 机に向かうことでしか、つながれない世界がある。

 成績という、目に見える糸。

 数字という、裏切らない証拠。


 夜、父が帰ってくる。


「……勉強してたのか」


「うん」


 父は、机の上を一瞬だけ見た。

 ノートの字。

 開いた参考書。


「……すごいな」


 その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。

 すごくなんてない。

 やめられないだけだ。


「なあ、悠真」


「なに?」


「……医者になりたいって、本当か」


 聞かれて、息を吸う。


「うん」


「……大変だぞ」


「知ってる」


 父は黙った。

 しばらくして、低い声で言った。


「……母さんもな、努力するやつは好きだった」


 その一言で、視界が滲んだ。

 泣きそうになるのを、必死でこらえる。


「……だから、応援はする」


「……うん」


 机に戻る。

 ライトをつける。

 白い光が、ノートを照らす。


 逃げ道は、ここしかない。

 でも、ここにいれば、前に進める。


 悠真は、鉛筆を握り直した。

 小さな手。

 まだ何も救えない手。


 それでも、この手で、未来を掴みにいく。

 止めないために。


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