第1話|血の匂いと白い手

第1話|血の匂いと白い手


 雨は、さっきまで降っていた。

 道路がまだ濡れていて、街灯の光が水たまりの上で薄く伸びている。

 その光の中を、救急車の赤いランプが、ぐるぐると回りながら切り裂いた。


「お母さん! ねえ、お母さん!」


 悠真は、濡れたアスファルトの上に膝をついたまま、母の肩を揺すった。指先が触れた服は冷たい。雨じゃない。汗でもない。ぬるい粘り気が、指にまとわりつく。


「やだ……起きてよ……」


 母の目は半分開いていて、遠くを見ていた。まつ毛に雨粒がくっついて、震えない。


「動かないで! 子ども、離れて!」


 知らない大人の声。強い手が悠真の腕を掴んで、引き剥がす。

 引っ張られた瞬間、悠真の喉から変な音が出た。泣き声とも叫びとも違う、空気が裂ける音。


「お母さんだって! ぼくのお母さんだって!」

「わかった、わかったから! 救急車来てる! 今、来てるから!」


 救急車のドアが開く音は、金属が泣くみたいに尖っていた。

 担架が滑り出て、白いシーツがひらりと揺れる。雨と血が混じった匂いが、鼻の奥を刺す。鉄の匂い。口の中まで苦くなる。


「患者、女性、三十代! 交通外傷、意識レベル低下!」

「血圧――測れない!」

「ルート取れる?」

「取れません、冷たい!」


 大人たちの言葉が、乾いたビー玉みたいに跳ねる。

 悠真は、担架の横に走った。走ったつもりなのに、足がぬかるみにはまるみたいに遅い。


「ぼくも行く! ぼくも行く!」

「君は――」

「行く! 行かないとだめ! お母さん、ひとりにしない!」


 誰かが迷った。

 迷った一瞬の隙に、悠真は救急車のステップをよじ登った。中は狭くて、薬品の匂いが濃い。酸っぱい消毒の匂いと、ゴムの匂い。機械の熱。

 母は、白いベッドの上に固定されていた。首の周りに硬いものが巻かれ、腕に何かを巻かれ、胸がほとんど動いていない。


「お母さん、ねえ、ぼくいるよ! 聞こえる?」


 返事はない。

 その代わり、ピッ、ピッ、ピッ、と機械がせわしなく鳴った。

 救急車が動き出すと、身体が左右に揺れて、母の髪が頬に張りつくのが見えた。


「お母さん、寒い? 寒いよね? ぼくの上着――」

「触らない! 動かさないで!」


 救急隊員の声は、怒っているというより必死だった。

 悠真の胸の奥が、ぎゅっと潰れる。何もできない。手はあるのに、握っているのは空気だけ。


「あと何分だ!」

「三分! いや、信号――」

「くそ!」


 救急車のサイレンが、耳の骨を震わせる。

 悠真は、母の手を見た。爪の先が青白い。指の間に、赤黒い線が入り込んでいる。

 その赤が、自分の指にも移っていた。さっき触れたから。

 なのに、手を拭く気になれなかった。拭いたら、何かが終わる気がした。


 病院の自動ドアが開いた瞬間、空気が変わった。

 外の湿った匂いが消えて、冷たい薬品の匂いが押し寄せる。床は乾いていて、光が白い。


「搬入!」

「外傷! ショック!」

「処置室空けて!」


 担架が走る。車輪が床を削る音が、ギュルギュルと短く鳴る。

 悠真は、必死に走ってついていった。壁が流れる。天井の蛍光灯が、一本ずつ視界を切っていく。


「家族の方、こちらでお待ちください!」


 看護師が、悠真の前に立ちはだかった。白いマスクの奥の声は柔らかいのに、腕は鉄みたいに強い。


「いやだ! 中に入る!」

「危ないから! 君は――」

「ぼく、ぼく……」


 喉が詰まった。

 “息子です”と言おうとしたのに、声が出ない。息子って言ったら、母が“母”になる。母が“母”になるってことは、今の母がもう、元の母じゃないみたいで怖かった。


「……お母さん……お母さんが……」


 看護師の目が、ほんの少し揺れた。

 彼女はしゃがんで、悠真と同じ高さになった。


「ねえ、名前は?」

「……ゆ、悠真」

「悠真くん。お母さん、先生たちが今、全力で助けてる。だから、悠真くんはここで待ってて。お願い。ここはね、血がいっぱい出る場所なの。怖いよ」

「怖くない!」

「……怖くないふり、してるだけじゃない?」


 その言葉で、膝がふるえた。

 怖い。何が怖いのか分からないくらい怖い。

 悠真は、唇を噛んだ。鉄の味がした。自分の血。


「でも、見る」

「……見るのは、あとで。今は待つ。ね? 手、握ろうか」

「やだ。ぼくの手、血ついてる」

「血はね、洗えば落ちるよ。落ちても、悠真くんの中に残るものは、残る」


 看護師は、悠真の手をそっと包んだ。

 そのぬくもりに、息が漏れた。声にならない、穴の空いた息。


 処置室のドアは閉まった。

 ガラス窓の向こうで、人が忙しく動く影が見えた。

 青い衣の背中、白いガウン、マスク、帽子。

 母の身体は、誰かの腕で囲まれて、見えたり消えたりする。


「……お母さん……」


 声が届かない。

 窓が厚いからじゃない。

 世界が、二つに分かれてしまったからだ。

 こちらは、待つ世界。向こうは、戦う世界。


 ピッ、ピッ、ピッ――

 機械の音が、一定のリズムを刻む。

 それが急に速くなった。


「血圧下がってる!」

「輸血、急いで!」

「開胸準備!」


 声が飛ぶ。

 悠真の胃がひっくり返りそうになった。

 手のひらが汗で湿る。手を握っているのに、どこにも支えがない。


「先生、来ました!」


 別のドアが開き、ひとりの男が入ってきた。

 背が高い。動きに無駄がない。

 ゴム手袋をはめながら、窓越しでも分かるくらい速く、的確に指を動かす。


「……誰……」


 悠真は、窓に額をつけた。冷たい。

 男は一度も窓の外を見ない。

 見ないのに、部屋の空気を支配している。


「状況」

「交通外傷、出血性ショック。腹部――」

「開ける」

「はい」


 “開ける”。

 その言葉が、悠真の背中をぞくりと走った。

 開けるって、何を。母の身体を。

 そんなこと、していいの。

 でも、誰も止めない。止める人がいない。


 男の手が、母の腹の上に置かれた。

 次の瞬間、赤が増えた。

 真っ赤じゃない。黒っぽい赤。深い赤。

 ライトの光に照らされて、ぬめった光を返す。


「吸引!」

「はい!」

「鉗子」

「はい!」


 言葉が短い。

 短いのに、部屋の中でちゃんと繋がっている。

 まるで、縫うみたいに。

 男の手は、赤い海の中で動いた。迷わない。震えない。


 悠真は、息をするのを忘れていた。

 視界が狭くなる。耳が遠くなる。

 それでも、目だけは離せない。

 怖いのに、見たい。

 この人は、何をしているのか。

 母を戻してくれるのか。


 男の手袋が、さらに赤く染まった。

 手袋の白や青はもう見えない。

 赤の上に赤が重なり、まるで色が“重さ”になっていく。


「止血できない……」

「圧迫。ここ、縫う」

「縫う?」

「縫う。糸」


 糸。

 糸って、あの、裁縫箱に入ってる糸?

 悠真の頭の中に、母がボタンを付けてくれたときの指がよぎった。

 針を通して、引っ張って、結ぶ。

 あれと同じことを、今、母の身体にするの?


 男が針を持った。

 針は小さく、鋭く、光った。

 それが母の皮膚の中へ、すっと入っていく。


「……痛い……よね……」


 悠真はつぶやいた。

 母は動かない。

 でも、“痛い”が遅れて来る気がした。

 この光景を見ている自分の中に、痛いが降ってくる。


 男は無言で縫った。

 糸を引く。結ぶ。切る。

 また縫う。

 繰り返す。

 手は止まらない。

 止めない。

 止めたら、何かが終わるから。


 突然、機械が鳴り方を変えた。

 ピ――――


「……心停止!」

「CPR!」

「アドレナリン!」


 部屋の中が、一気に嵐になった。

 人の肩がぶつかり、声が重なり、足音が床を叩く。

 悠真の膝が、がくんと崩れた。


「うそ……」

「悠真くん!」


 看護師が支える。

 悠真は窓を叩いた。掌が痛い。痛いのに、叩く。


「やだ! やだ! やだ! お母さん! 起きて! お願いだから起きてよ!」


 窓は揺れない。

 音も届かない。

 こっちの世界は、こんなにも弱い。


 男の手が、胸の上に置かれた。

 押す。離す。押す。離す。

 その動きは、祈りみたいに一定だった。

 汗が、男のこめかみから流れる。

 それでも目は動かない。


「……戻れ」


 小さな声が漏れた。

 誰に言ったのか分からない。

 母に? 心臓に? 自分に?


 また、針と糸。

 血に濡れた手袋で、結び目を作る。

 赤い結び目。

 命をつなぐ結び目。


 何分だったのか分からない。

 悠真の中の時間は、窓の前で凍ったままだった。

 目だけが乾いて、涙も出なくなった。


 やがて、機械の音が戻った。

 ピッ、ピッ……ピッ……


「……拍動、戻った」

「酸素化は?」

「まだ不安定」

「ICUへ」


 嵐が、少しだけ静かになった。

 でも、空気は重いままだった。

 男は、最後の糸を引き締めた。

 結び、切り、そして――母の身体から、手を離した。


 その瞬間、悠真は気づいた。

 男の肩が、ほんの少しだけ落ちた。

 勝った顔じゃない。

 安心した顔でもない。

 ただ、背負ったものの重さが、背中に現れただけの顔。


 処置室のドアが開いた。

 熱い空気と、濃い血の匂いが、廊下に漏れた。

 悠真は、息を止めていたことに気づき、はっと吸った。

 喉が焼ける。鼻が痛い。


 男が出てきた。

 手袋は赤いまま。

 手首まで赤い。

 それでも、手は静かだった。


 悠真は、男の前に立った。

 足が震える。声が震える。

 それでも言った。


「……お母さん、助かった?」


 男は、初めて悠真を見た。

 目は疲れているのに、まっすぐだった。

 嘘をつく目じゃない。


「今は、戻した。だが――まだ、山は越えてない」

「……生きてる?」

「生きてる」


 その二文字に、悠真の胸の奥が一瞬だけ熱くなった。

 でも、すぐに冷たいものが戻ってくる。

 “山は越えてない”。

 “戻しただけ”。

 まだ、終わっていない。


「……ぼく、さっき、血、触っちゃった」

「うん」

「だめだった?」

「だめじゃない」


 男は短く言った。

 そして、赤い手袋のまま、ほんの少しだけ指を曲げた。

 握手ではない。

 でも、何かを渡す動きだった。


「覚えておけ。血は、怖い。だが――手を止めたら、もっと怖い」

「……手を止めたら?」

「誰かが死ぬ。だから、止めない」


 悠真の喉が、きゅっと鳴った。

 泣きたいのに、涙が出ない。

 怖いのに、目を逸らせない。


「先生、なんで……止めないの」

「止めたくなるよ」

「じゃあ……」

「それでも、止めない」


 男はそう言って、手袋を外した。

 パチン、と音がして、赤が裏返り、床のゴミ箱に落ちた。

 その手は、赤くない。

 普通の手だった。

 でも悠真には、その手が世界で一番強い手に見えた。


 看護師が来て、悠真の肩を抱いた。


「悠真くん、お母さんのところ、少しだけ行けるよ。顔、見る?」

「……うん」


 ICUの前は、冷蔵庫みたいに冷えた。

 ガラス越しに見える母は、チューブだらけだった。

 胸は、ほんの少しだけ上下している。

 機械の音が、今度は“生きてる音”に聞こえた。


「お母さん……」


 悠真は、ガラスに手を当てた。

 冷たい。

 でも、向こう側にいる母の体温を、想像できた。

 今、母の身体には、赤い糸の結び目がある。

 あの男の手が作った結び目。


 “助けられなかった”という現実が、この先来るかもしれない。

 それは怖い。

 怖いけれど、もう一つの姿も、悠真の中に残っている。

 血に染まった手袋のまま、無言で縫合を続けた背中。

 止めたくなっても、止めない手。


 悠真は、自分の手を見た。

 小さくて、汚れていて、血が乾き始めている。

 手のひらに、母の温度はまだ残っていない。

 でも――


「……ぼく、手……」


 声が震えた。

 誰に言ったのでもない。

 自分の中の、まだ小さい何かに言った。


「……ぼくも、止めない手に、なりたい」


 廊下の蛍光灯が、白く鳴った。

 遠くで、また救急車のサイレンが近づいてくる。

 世界は、止まらない。

 そして、手も。


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