第9話 希望と信念の御旗(2)

 女王の城では、慌しい動きがあった。

 多くの傀儡の兵が列を作り、一人の将兵の前に控えている。

 黒く長い髪を風に靡かせるその男は、夜のように深い漆黒の瞳を伏せた。


「出兵の準備は整っていて?」


 優雅で冷たい氷の声がする。

 金の髪が夜に凄絶な光を放つ。

 その笑みは深く、これからの惨劇を楽しんでいるようだった。


 黒髪の男は体躯を折って忠節を誓うように瞳を閉じる。

 こうしていると、いつも胸は地獄の業火に焼かれるような気分がしていた。


「彼らが、あの忌々しい町へと入ってくれたのは、幸いだったわ。ついでに壊して回りたいもの」

「はっ」

「あの町を作った小ざかしい坊やにも、挨拶しなくてはね」

「……」


 黒髪の男は、言葉を詰まらせた。ただそれを悟られまいと、無表情を通したのだ。


「全軍出陣。惨劇の夜を、彼らにプレゼントなさい」


 城門が一斉に開く。

 城にいる全ての兵が隊列をなし、城下の町へと雪崩込む。

 黒髪の男もまた、馬に乗って城門を出た。

 複雑な思いを、胸に抱いて。


◇◆◇


「……動きましたか」


 離れた花街で、ファウスは静かに口を開いた。

 座っていた椅子を立ち、足早に向かう。

 そして、多くのスタッフに命じて回った。


「時が回りました。住まう全ての者に伝令を。地下へ避難し、決して扉を開けぬようにと。全ては護符が、守ってくれると」


 聞いた全てのスタッフが手はず通りに散っていく。

 その足で、ファウスはすぐさまラクシュリ等の元へと向かった。

 休憩のため用意した部屋に、幸いにも四人全員がいた。


「みなさま、すぐに避難を。敵が参ります」


 緊張が走る。

 それでも、動揺を表に出すような人は誰もいない。

 全員が武器と少々の荷物だけを持ち、立ち上がる。

 ロッシュも腰に聖剣を差し、立ち上がった。


 ファウスはそのまま、地下へと四人をつれていく。

 暗い階段を下りていくと、昼間とは違う場所に出た。

 そこには青白い蝋燭が四本立ち、円形の魔方陣が描かれていた。


「転送用の魔方陣です。これは片道分。行けば戻ることはできません。出口は森の中の小屋です。神聖な場所ですので、女王達は近づけないはずです。そこからは地下の隠し通路を通って進んでください。小屋の壁にある絵に手を触れれば、隠し通路へと繋がっています。出口は、食堂の辺りになります」


 矢継ぎ早にそう告げたファウスは、四人に一つずつタリスマンを手渡す。

 綺麗な色をしたお守りは、そういうものを感じない人間にも何か不思議な感覚をもたらした。


「これは、持つ者の気配を一時的に消してくれるものです。そう長くはもちませんが、安全に身を隠すまでは使えるでしょう」


 全員がそれを首に下げ、見回して頷く。

 そして、魔方陣の上に乗った。


「皆様に、軍神の加護があらんことを」

「貴方の上にも」


 グラディスの言葉に、ファウスは苦笑してみせる。

 それはとても切なく、儚く、最後のもののように映った。

 ロッシュの胸を、何かが鷲掴みにする。大きすぎる不安なのだろう。

 いや、胸騒ぎだったのかもしれない。


「ファウス」

「陛下、ご自分を信じてください。守るべきものを守りたいと、願ってください。諦めてはなりません。貴方の体に流れるものを、信じてください」


 そういう会話をしたかったのではない。

 だがロッシュは、何を言えばいいのか見失って、頷くしかない。

 目の前で微笑む人を、ただ見るしか。


 ファウスの手にあるベルが、リーンと澄んだ音を奏でる。

 魔方陣が青い光を放ち、天へと泡のような光を昇らせてゆく。

 視界が徐々に、光に遮られてゆく。


 ファウスの姿が見えなくなるにつれて、ロッシュの不安や胸騒ぎは大きくなるばかりだ。

 親のように、兄のように、傍にずっといた人が離れてゆく。

 苦しそうに微笑むものだから、余計に何かを予感させた。


「ファウス!」


 名を呼ぶその声に、ファウスは少しだけ表情を曇らせた。

 困ったような顔をされると、ロッシュだってどうしていいものか分からない。

 本心では、ここに残って一緒に戦いたいと願っている。

 けれど、それはファウスのしてきたこれまでの努力を全て無にしてしまうのだと、知っている。

 もう少しアホで、熱しやすい人間だったらきっと、こいつを一人ここに残したりはしないのに。

 今、できることは一つくらいしか思いつかない。


「ファウス、必ず生きて俺の元に来い! これは命令だ!」

「陛下……」


 その言葉は、とても重く鋭く、ファウスの胸に刺さった。

 長年仕え、育ててきて、ロッシュは一度だってファウスに命令なんてしなかった。

 兄のように慕って、生意気を言っても優しくて、案外細やかな心を持っている子だった。


 ― これが、最初で最後の命令とは……。


 ファウスは感情を殺して笑う。

 気を緩めれば封じたはずの涙が、溢れて零れそうだった。

 そして、たった一度だけ、嘘をついた。


「えぇ、必ず」


 消えていく、姿の見えない人々を見送って、ファウスは立ち尽くした。

 頬を、薄く濡らすものがある。

 見送った姿が、目に焼きつく。

 溢れて零れ、嗚咽を漏らし床に膝をつく。

 そして、ただひたすらに願った。

 もう一度だけ、叶うならその姿を、見られるようにと。


◇◆◇


 女王の軍は花街の門を突破した。

 異質なものを検知し、警報を発する魔法がそれを町の全員に知らせる。

 町は誰もいないかのように静かだった。


「町の人間を探し、魔術師とその一味の行方を聞け!」


 ウェインの声が響く。

 意思のない傀儡の兵は、のそりのそりと動き出す。

 家々の扉を破り、生き物の気配を探し、くまなく探し出そうとする。


 女王はそれから少々して、花街に降り立った。

 冷ややかな風が一つ吹くと、そこに音もなく姿を現す。

 魔法などとは無縁のウェインには、とても信じがたいものだ。

 親友に魔術師がいるが、彼にもこんな芸当は無理だろう。


「相変わらず、嫌な町ね。あちこちにトラップが張ってあるわ。どれも、機能などしていないけれど」

「機能していない?」


 ウェインは怪訝な顔をする。魔術師ではないウェインには何も感じられないのだ。

 目に見えるような罠はないし、単なる町にしか見えていない。


 だが、女王はクスクスと笑い、とても甘く囁くようにウェインを見る。


「えぇ、機能などしなくてよ。この町のトラップを動かすのに、どれほどの魔力が必要なのかしらね。もしもそんな芸当ができるとしたら、私か、双子の弟だけよ」


 最強の魔力を備えた女王と、その血を分けた双子の弟。

 ウェインは噂にだけ聞いたことがあった。

 女王が唯一気にかけ、常にその場所を探し、追いかけ、刺客を差し向けていた人物。

 この人をそれほどまでに警戒させるとは、一体どんな強者か。


「気配が四つあるわ。うち一つが、私の弟。随分久しぶりに会うわね。最後に会ったのは……半年ほど前のことかしら?」


 戦場に不釣合いな白のドレスを優雅に翻し、女王は町の中央へ向かって歩いてゆく。


 辿り着いたのは、ファウスが持っている楼閣で、明かりは全て消されていた。

 扉も開けっぱなしになっている楼閣に、女王はゆっくりと入っていく。

 辺りを少し見回し、そのまま地下へ。

 確かに感じる他とは違う気配を、追っていた。


 地下にある一際豪華な扉は、とても不釣合いに見える。

 その扉を開けた女王は、中で今まさに逃げんとする四つの影を見つけ、綺麗な唇に残酷な笑みを浮かべた。


「こんばんは、運命に翻弄された哀れな方々。こんなところにいらしたのね」


 ラクシュリ、グラディス、ジュリア、ロッシュ。

 それぞれの人形は表情を硬くして振り返る。

 その体はあたかも本物のように小刻みに震え、ジュリアとロッシュは剣を抜いていた。


「あら、そんなに怖がらなくてもいいのよ? 抗っても無駄。諦めることが肝心だわ」


 優雅に歩み出す女王に押されて、一歩ずつ後退していく四人。

 獲物を追い詰める狼のように、女王はその行為そのものを楽しんでいるようだった。

 そして、部屋の中央辺りまでその歩みを進めた、その時だった。


『その身は縛られ、境を越えず。異界に踏み入れし身は縛られ、超える事はない。亜空間結界!』


 ベルの響く音と共に、辺りが急に遠く感じる。

 この部屋だけ隔離されたようなそのおかしな感覚は、女王とてそう多く経験したことがない。

 古に伝わる伝承と、この地に残る僅かな魔術の一族にのみ、秘術として伝わっているものと聞く代物。

 ある特定のものを空間に閉じ込める魔術。


 ゆっくりと、暗がりから姿を見せる男を、女王は見ていた。

 今と未来を映す瞳を持つ、綺麗な顔の魔術師を。


「あら、案外綺麗な顔をしているのね、坊や」

「お褒めに預かり光栄です、女王陛下」


 互いに優雅な礼をするが、その心は既に戦っている。

 ファウスはジッと女王を見据えたまま、動かない。

 その手にはベルを持ち、いつでも魔法を使えるように準備している。


「そんなに警戒しなくてもよくてよ。まだ、許してあげるわ」

「いえいえ、この国を混沌に飲み込もうなどと恐ろしいことを考える貴方を前に、警戒するなと言われてもそうは参りません」

「随分な言いようね。私はこれで寛大なのよ? 貴方が四人を差し出してくれれば、それでこれまでの罪を不問にしようっていうのだから、悪い話ではないでしょ?」


 ファウスは一瞬、背後の四人を見た。

 魂の欠片を入れただけの人形は、随分頑張ってくれている。

 今ここで悟られてはならないのだ。

 もう少し、立派に演じてもらわなければ。


 女王は、ゆっくりとファウスに近づく。

 ファウスは間合いを気にしながら、それを避けて後退する。

 額に薄っすらと、汗が浮かんだ。


「亜空間など、無駄なことよ。さぁ、早くここを解いてくださらない?」

「お断りします」

「それは困ったわ。そうなると……」


 ふわりと、女王の姿が掻き消えた。

 ファウスは完全にその位置を見失ってしまう。

 狼狽し、辺りを何度も見回す。

 その背後、闇の中からスッと伸びた手が、冷たく首筋に触れるまでは。


 ひやりとした手が、まるで誘惑でもするようにファウスの首に絡む。

 背中に気配を感じる。冷たく、恐ろしいものがヒタリと、背に張り付いた。


「貴方を殺すしか、なくなってしまうわ」


 心臓が、強く鳴る。

 殺されると、確信する。

 それでも真実を言うことはできない。

 ファウスは口を閉ざし、ベルに力を集中させた。


「私一人が死ぬことはできません。貴方にも、お供願います」


 女王は捕らえた体を一瞬の判断で離した。

 ただならない力の集中を感じたのだ。

 ファウスの体を中心に、光が集まってくる。

 そして、それはゆっくりと言葉になった。


『天地の神よ、この身に流れる魔力の全てをかけて願う。水は澄み、天は光、悪しき魂は天へと還る。天より舞い降りる救済の手よ、死せる魂を黄泉へと送れ!』


 四方八方から響くベルの音。それはどこからともなく聞こえてきた。

 女王はこの時ようやく、この全てが亜空間などではなく、ファウスの作り出した幻想であると知った。


◇◆◇


 町の全てがうす青く光り、天高く光を巻き上げる。

 地下に作り上げた水路の魔方陣を、魔力が流れ光るのだ。

 その光に触れた傀儡の兵士はことごとく消えてゆく。聖なる物に触れれば、穢れをまとう死者は天の理によって浄化されていくのだ。


 それはまるで、天に昇る魂の舞であった。

 滅ぼす光ではなく、浄化の光。

 女王に殺され、その魂ごと肉体を不死とされた者は、魂の浄化も叶わず穢れ落ち、やがてこの地を彷徨う悪鬼と化す。

 そう、言われている。


「そうか……救われたか……」


 無言の救済を見上げ、ウェインは瞳を閉じて黙祷する。

 死した全ての人の冥福を、心から願って。


◇◆◇


 鳴り響くベルの、澄んだ音色。それが四方から聞こえ、消えてゆく。

 一つ鳴れば更に光は増してゆき、二つ鳴ればより多くの兵が救われてゆく。

 やがてその音が消える頃には、全ての兵士が綺麗に消えていた。


 すべき役目を終え、ファウスは瞳を閉じる。

 いや、まだ体の感覚があることに驚いていた。

 目が見える、音が聞こえる、息が吸える。

 生きていることをこれほどに喜んだことはなかった。


 ファウスの準備は、町の建設と同時に行われていた。

 地上の通路や門には、普段女王の部下が入り込まないように。

 その地下では水路を作り、五つの魔方陣を柱とした浄化の魔法を用意していた。

 そしてその四つの魔方陣全てに、自分の力と魂を移した傀儡を用意したのだ。

 傀儡はよくその体に自然の気を溜め込んでくれた。

 それでも、町一つに入り込んだ全ての不死者の浄化など、可能かどうか分からなかった。

 できたとして、魔力が足りず命を食われることも覚悟していたのだ。


 ゆっくりと、ファウスは体を起こす。

 そして、壁に体を預けながら地上を目指した。

 古ぼけた教会の扉を開ける。

 そして、静まり返った町を見回した。


「陛下……」


 崩れそうな体を引きずり、ただ最後の命令だけを刻んで行く。

 力尽きようとも、立ち上がり歩く。

 そうして、噴水のある広場まで辿り着いた。


 僅かに見上げた先に、人の姿がある。

 死者は全て浄化したのだから、それはすなわち生身の人間である証拠だ。

 そしてその男は、ファウスの知っている者のように見えた。


「ウェイン……?」

「ファウス?」


 声に気付いたのか、男が慌てたように近づいてくる。

 黒い服を好む、気の優しい男。

 誓いをたてし親友。

 旅をしている先々でも、時折会いにきてくれた人……。


「ファウス!」


 ウェインの姿を見た瞬間、ファウスは全ての気が抜けてしまった。

 途端にこみ上げる咳と、重く動かない体。

 咳き込んだその唇からは、赤いものがポタポタと落ちた。


「しっかりしろ、ファウス!」


 抱き起こしてくれて、見上げるウェインは、決して他人に涙など見せる男ではなかった。

 ただ今は、泣きそうな顔をしている。

 その先に、彼の未来が見えた。

 見えないはずの、過去も少し。


「ウェイン……辛い思いを、したんですね……」


 消えそうな声で、ファウスは言う。

 触れるウェインの手は、とても暖かく感じた。

 それは自分の体が徐々に、冷たくなっているということでもあった。


「私がいない間……貴方は苦しんだんですね」

「ファウス、もういいんだ。何も喋るな。頼むから、お前まで俺を置いてゆかないでくれっ」


 ウェインの願いに、ファウスは首を横に振る。

 やはり、運命は変わらなかった。

 ラカントの力があっても、ほんの数刻死が伸びたにすぎない。


 でも、この数刻には大きな意味がある。

 自分の命は救えなくても、違う命は救えるのだ。

 この、たった一つかけがえのない命だけでも。


「ウェイン、私は貴方に会えてよかった……。貴方だけでも、救える……」

「何を、言っている?」


 困惑に揺れる瞳を見上げ、ファウスは自分の右目に触れた。

 全ての魔力と願いと、魂すらもそこに集めるように、意識を集中させて。

 消えていくものを感じる中で、右目だけは熱く感じる。

 この願いが、この思いが叶うように。


「ウェイン……陛下をお願いします」


 右の瞳に集めた力と言葉を乗せて、ファウスはウェインの左目に触れた。

 瞬間、ウェインは瞳に熱い痛みを感じた。

 だが、痛みは一瞬のものですぐに消え、視界にも体にも、変化はない。

 あるのは、綺麗な笑みを浮かべて瞳を閉じた、親友の体のみだった。


「ファウス?」


 揺さぶっても、声をかけても、もうそれは届かない。体の重みがずっしりと腕に残る。

 熱を持っていたはずの体から、その熱の全てが消えてゆく。


「ファウス!」


 叫ぶ名に、答える者はもうない。

 ウェインはその体を抱き締め、声を殺して涙を流した。


「あら、一足遅かったわね」


 親友の体を抱き、涙を流すウェインの上に声が響く。

 見上げた先では女王が、少々不機嫌そうにファウスを見ていた。


「私の忠実な僕だったのに、全部消えてしまったわ。せめて嫌がらせくらいしようと思っていたのに、さっさと旅立つなんて」


 ウェインは無意識に、ファウスの亡骸を庇った。

 腕に抱き、反逆の意思を持つ瞳で睨み付ける。

 だが、女王は見下ろしその腕を上げると、冷酷な声で命じた。


「貴方が私に逆らえるわけがないでしょ? 身の程をわきまえなさい」


 ずしりと重く、見えない力がウェインを押しつぶす。

 無様に地へと張り付き、ウェインは声にならない声を上げる。

 だが、絶対的な力と契約は、彼を決して見逃してはくれなかった。


「まぁ、いいわ。おばかな子達は自ら、その場所を教えてくれるようだし。手土産くらいは持っていけそうだもの」

「や、めぇ……っ!」


 ウェインの目の前で、赤い飛沫が上がた。

 投げ出されたファウスの体から、首だけが持ち去られる。

 それをただ見ているしかできないウェインは唇を噛みしめるしかない。


「貴方は先に戻っているといいわ。それと、二度と反逆なんて、しないことね」


 ふわりと夜の風に紛れて、女王の姿が消える。

 そうしてやっと、ウェインは自由を取り戻した。

 無残にも首を取られた体を、ウェインは抱き上げる。

 言葉も、涙も見つからない。その全てがおこがましい。裏切りを選んだのはウェインだ。その選択の結末が今ならば、ただ黙って打たれるしかない。

 何処かでは分かっていただろう。民の、仲間の、友の屍の上に立たされることを。


「何が約束だ。絆など……っ! 結局俺は何も守れないではないか」


 歯を食いしばる、その言葉を聞く者はない。

 亡き友の骸を大事に抱えたまま、ウェインはゆっくりと町を後にした。


◇◆◇


 ロッシュは到着した小屋を飛び出し、森の先にある丘を目指した。

 到着したのは見知った森だったのだ。

 その森を抜けてゆけば、花町を見下ろす丘に出る。

 空に昇る無数の白い光が消えた途端、胸騒ぎはピークに達した。

 そして、いてもたってもいられなくなったのだ。


「ロッシュ、待てったら!」


 走り出すロッシュを追って、ラクシュリとジュリアも走る。

 一番最後をゆくグラディスは、予感が当たったのだと察して、瞳を閉じた。


 丘の上は、とても静かだった。何の物音もしない町の様子。

 本当に、こんな静かな町を見るのは初めてだった。


「お前、いい加減にしろったら! ここじゃ女王に見つかるだろ!」

「早く森に引き返すべきよ。ファウスさんの気持ちを無駄にしたくなかったらね」


 二人の言うことは正しい。

 ラクシュリも、ジュリアも間違っていない。

 けれど、ロッシュは動けなかった。

 そして、更に町へと向かって歩こうと、フラフラ足を進めてしまった。


 その腕を、掴む手がある。

 頼りなく見ると、いつの間にか近づいてきていたグラディスだった。

 彼は静かに、首を横に振る。


「今から行ったところで、手遅れです」

「そんなこと、わかんないだろ」

「いいえ、分かります。彼は、死にました」

「そんなの信じられるか!」


 絶望に満ちた叫びが、夜の丘に響く。

 その気持ちは、その場にいる全員の胸にも響いた。

 だが、全員がなんとなく予感していた。

 彼はもういないのだと。


 ロッシュだって、どこかでそれは分かっていた。

 けれど、認めるわけにはいかなかった。

 現実を見るまでは……。


 その時、不意に何かが闇の中から転がってきた。

 丸い、でもそれが何かを、この時ロッシュはまだ分からなかった。

 それが、自分の目の前に転がってくるまでは。


「な!」

「っ!」

「あ……」


 コロリと転がったそれは、とても静かな顔をしていた。

 口の端から、一筋血が流れた跡がある。

 フラフラと、ロッシュはそこに近づこうとした。

 だがその前に、ジュリアとラクシュリが立ちはだかった。


「くる」


 ただならない気配がする。冷たい空気が流れ込む。

 ラクシュリは、退きたい気持ちを奮い立たせて、ラカントの短剣を構えていた。

 その短剣の柄に、ひやりとする手が触れた。


「あら、可愛いのに乱暴なのね」


 声が聞こえたのと、体が吹き飛ぶのは同時だった。

 まるで転がってきた岩にぶつかったような、硬く強い衝撃が体を吹き飛ばす。

 そのまま森の木々のところまで吹き飛ばされて、背中を打ちつける。

 息が止まり、悲鳴も上げられないままに意識が飛んで、ズルズルと地面に崩れ落ちた。


「ラクシュリ!」


 グラディスはそちらへと体を向けるが、行くことはできなかった。

 今のロッシュを放り出すことができなかった。

 茫然自失でファウスの首を抱き締める彼を、どうしてこのままおいてゆけるのか。


「久しぶりね、ジュリア。私は貴方も気に入っていたのに、残念だわ」

「ほざけ!」


 怒りのまま、ジュリアは女王に剣を向ける。

 渾身の力で振り下ろした剣は振り下ろすこともできずに、不思議な力で押し留められてしまう。


「そういう、苛烈なところが好きだったのよ。まぁ、もうどうでもいいのですけれど」


 剣が凍り出すのを見て、ジュリアは剣を手放して後ろに下がった。

 その、下がったはずの腹部にスッと、女王の手が伸びた。


「!」


 強い衝撃と共に体が後ろへと吹き飛ぶ。

 息が止まり、意識は消えた。

 ジュリアはそのまま後方の、ラクシュリのすぐ傍まで飛んで転がる。


 丘の上は、冷たい静寂に包まれた。

 ピリピリとした緊張感が漂う中、女王はとても艶やかな笑みを浮かべていた。


「久しぶりね、グラディス。半年ぶりかしら? 変わりなくて安心したわ」

「ソフィア……」


 ゆっくりと近づいてくる女王からロッシュを庇いながら、グラディスは女王の名を呼ぶ。

 恐れは強く、本心は逃げたかった。

 だが、逃げられるものではなかった。

 もう、そういう選択ができるような状態じゃない。

 あまりに多くの血が、流れすぎた。


 女王は高らかに笑う。

 嬉しそうに。

 そして、グラディスの肩に触れ、愛しげに口付けをした。


「どうして私に逆らうの? 貴方も憎いでしょ? 母様を殺し、父様を殺し、私達を長い間塔の上に監禁した、人間なんて」

「私の中に憎しみなどありません。ただ、悲しみだけがある。もう、これ以上犠牲者を出すのはやめてください! 母上も、そんなこと望んで」

「貴方に母様の何が分かると言うの!」


 ヒステリックな声に呼応して、冷気が辺りを一層冷たくする。

 グラディスはその冷気を退け、女王を睨み付けた。

 そして、スッと瞳を閉じた。


「あら、何をしようというのかしら? 貴方のへなちょこな魔法なんて、これっぽっちも」

『―― ファイア・グランス』


 手の平を中心に円を描いた炎から、直線的に爆発的な火炎が吹き上がる。

 それは辺りを焼き尽くさん勢いで、夕日のような真っ赤な世界になった。

 それをまともに受けた女王は、目を丸くして焦げた服の裾を払う。

 そして、冷笑をより濃くした。


「そう……それが貴方の決めた道なのね」


 制御の禁を解いたグラディスの目に、もう迷いなどない。

 真っ直ぐに、女王に負けない冷たい眼差しを向けている。

 だが、女王はそれを笑った。

 そして、スッと左の手を上げた。


「忘れたのかしら? 貴方の命は私が握っているのよ。生命を司る母、ヴィルヴィヤの力は、私の中にこそあってよ」


 上げた右手が紫に光る。

 その瞬間、心臓を締められるような痛みがグラディスを襲った。

 息ができない。体の自由もきかない。

 全身を締め上げ、息の根を絶とうとするような痛みに悲鳴をあげ、自分を抱き締めてもいっこうに楽になる様子がない。

 そしてその背に、紫の羽が一枚、大きく翼を広げた。


 引きつけを起こし倒れるグラディスを超えて、女王はロッシュへと近づく。

 聖剣を手に、ファウスの首を抱えるロッシュを、女王は哀れみの目で見下ろした。


「かわいそうに、苦しいのね」


 哀れみを含む声は、いっそ慈悲のようでもあった。

 ロッシュはそちらに、虚ろな瞳を向ける。

 スッと伸びた手が、ロッシュの頭に触れる。

 そして、女神のような笑みを女王は浮かべた。


「もう、何も悲しまなくていいのよ」


 体が冷えるような気がした。意識も徐々に薄らいでゆく。

 その中で、ロッシュは思い出していた。


 ―― 陛下、ご自分を信じてください。守るべきものを守りたいと、願ってください。諦めてはなりません。貴方の体に流れるものを、信じてください。


 ロッシュの目に、倒れた仲間の姿が映る。

 志を託して散った人の姿が眼裏に蘇る。

 心臓が、トクンと強く打った。

 そして、聖剣の柄に手をかけていた。


 抜き去った聖剣は、光を集めたように光り輝いた。

 天が裂け、光が降りる。雷が鳴り響き、辺りは天変地異のような騒々しさと荒々しさに満ちる。


「なに!」

「女王!」


 切りつけたその切っ先から、光の刃が伸びて女王を虚空へと押し返す。

 ロッシュの瞳には、強い意思があった。


「……そう、貴方も抗うのね」


 悲しげに、女王は呟く。

 そして、光が乱舞する天を見上げて、憎らしげに舌打ちをした。


「どん底に落としたまま、私の手に委ねるでもない。人に希望を見せるだけ見せて、甘やかすのでもない。何を考えているのかしらね、ベルーン」


 騒々しい場所を逃れるように、女王は夜に溶けて消えていく。

 空はいっそう騒々しく、光は辺りを巻き込んで真昼よりも明るくなる。

 そしてその光の道を、一人の男が降りてきた。


『ほぉ、目覚めたか』


 男はふてぶてしい態度でロッシュを見下ろす。

 それに負けぬよう、ロッシュも男を睨み上げた。

 ロッシュには分かっていた。この男の正体が。


「全ての人が絶望に沈んだ。多くの勇士が倒れた。これだけの命と嘆きにすら耳を貸さぬ貴方が、今頃何用だ、主神ベルーン」

『私を創造主と知っての暴言とは、人の王も偉くなったものよ』


 主神ベルーンはロッシュを見下ろし、笑みを浮かべる。

 神を恐れぬ彼の姿が気に入ったのか、腕を組んで白い髪を指で遊ぶ。

 そして、身を屈めてロッシュの顔をマジマジと覗きこんだ。


『他に、言いたいことはあるか』

「……もう、全てが遅い。散った命は戻らない。受けた傷は消えない。この世から楽園は消えた。貴方が傍観しているうちに、人の心は絶望した。今更現れ、貴方は人に何をさせようというのか」

『確かに、少々遅参が過ぎたようだ。これではこの世も人も氷漬けになるな』

「なに!」


 自分は関係ないと言わんばかりのベルーンの言葉に、ロッシュは激昂して掴みかかる。

 憎しみの宿る鳶色の瞳は、可能ならば目の前の男を殺す勢いがある。

 それを見つめ、ベルーンは口の端を吊り上げた。


『まぁ、お前達は唯一の希望だ。労おうではないか』

「なに?」


 鋭いまま、ロッシュは問う。

 ベルーンは掴みかかるその手を軽く払い落として、腕を組み高慢なままに契約を口にした。


『お前が見事レンカントを滅ぼしたならば、その功績を認めお前の願いを一つ叶えてやろう。何でもいいぞ。この世を楽園に戻すことも、お前の育ての兄を生き返らせることも』


 その言葉に、ロッシュは衝撃を受ける。

 そして、手にした剣をマジマジと見つめ、その後でグラディスを見た。

 痛みや苦しみに身動きも取れず、気を失っている彼を。


『よく考えることだな』


 その言葉を残し、ベルーンは再び光の中に消えていく。

 騒々しさが嘘のように静まって、辺りはまた月のない夜に戻っていった。



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