第三話「女神の目配せ」
夕闇に沈みゆく王都は、昼間の喧騒とは異なる静謐を纏っていた。
オルヴァンはコートの襟を立て、石畳に硬い靴音を響かせる。胃の奥には、鉛のような重みが居座っていた。広場でのクラウスの暴走――あれ自体は、取るに足らない茶番だ。だが、去り際に向けられたあの怨念に満ちた視線。
「また、余計な仕事が増えたな……」
無意識に漏れた溜息は、冷え始めた夜気の中に白く消えた。
路地の角を曲がると、古びた木製看板が見えてくる。
バー《ブルーワーデン》。ローエングラート少将が士官学校時代の親友へ、開店資金を工面してやったという逸話を持つ、軍人御用達の隠れ家だ。
重厚な扉を押し開けた瞬間、染み付いた木の香りと低いざわめきが彼を迎えた。
落ち着いたランプの灯が揺れる店内には、いつもより濃い煙草の煙が漂っている。カウンターの奥では、退役軍人の店主が黙々とグラスを磨き、壁の古枠には帝国神話の女神――セラフィーリア像が鎮座していた。
慈悲深い、あるいは嘲笑うような微笑を湛えるその瞳は、影の向こうから確かにこちらを射抜いていた。
「……遅いぞ、オルヴァン」
奥のボックス席。ローエングラート少将が琥珀色の液体を揺らしていた。その正面には、端正な軍服を隙なく纏ったエヴァン・フォン・ローエングラート中佐。少将の娘婿であり、オルヴァンにとっては直属の上官にあたる男だ。
「十五分の遅刻だ。何かあったか?」
エヴァンが手元の時計に目を落としながら問う。
「ええ、まあ。従兄が広場で派手な発作を起こしまして」
オルヴァンがさらりと言い放つと、二人は同時に眉を跳ね上げた。
「……発作?」
「精神か、あるいは脳の病か。どちらの意味だ?」
「両方でしょうね。あれは『愚かさという名の慢性疾患』ですよ」
乾いた皮肉に、少将が喉の奥で低く笑った。エヴァンは苦笑を深め、手元に運ばれてきたグラスをオルヴァンの前へ滑らせる。
「……そういう口の利き方が、余計にクラウス殿下を苛立たせるんですよ、レーヴァテイン大尉」
オルヴァンは肩をすくめ、軍帽を脱いで椅子に預けた。
「俺のせいみたいに言わないでください。勝手に自滅する従兄の介抱まで、俺の
「さすがの殿下も、うちの大尉の舌鋒には敵わんか。……で、怪我はないか?」
「俺は無傷ですよ。あちらは『自尊心の大怪我』で再起不能かもしれませんが」
「……油断はするなよ。クラウスの奴は十中八九、お前さんに仕返しを目論むはずだ。……身の程は知らずとも、プライドだけは一人前の男だからな」
少将が強めの酒を一気に煽り、不意に声を低めた。
「だが、安心しろ。こちらも奴の失策を『証拠』として押さえるべく動いている。奴が卑劣な手を仕掛けてこようとも――」
少将の鋭い眼光が、オルヴァンを真っ向から捉える。
「――お前の潔白は、この私が保障する」
オルヴァンは一瞬だけ目を伏せ、静かに、だが深く一礼した。
「……感謝します、閣下」
「……さて。あれは所詮、つまらぬ前哨戦に過ぎん。本題は、その裏にある――」
店内の空気が、一気に密度を増した。
クラウスの騒動など、水面に生じた小さな波紋に過ぎない。その暗い深淵では、王国の根幹を根こそぎ奪い去るような巨大な陰謀が、静かに鎌首をもたげていた。
すべての火種は、ある一家系に集約されていた。
前国王の実弟、故ルートヴィヒ卿。その一人娘である故エリシア殿下。十数年前に世を去った二人。エリシア殿下が遺したのは、入り婿として「大公代理」の座に就いた男――エドヴァルトとの間の子ども後継者エリオン・シュタウフェン=ヴェルディア(十七歳)。
エドヴァルト大公代理の評判は、非の打ち所がない。
実直で誠実な人柄は領民から深く愛され、神殿への多額の寄付も欠かさない。「聖人」とさえ称されるその表の顔の裏で、彼は反王政派と密かに結託し、国家の根幹を揺るがす「何か」を冷徹に推し進めていた。
王都の空気は知らぬ間に緊張を孕み、王国を飲み込む巨大な影が蠢き始めている。
バー《ブルーワーデン》の奥、三人の前にグラスが揃うと、少将が声を落とした
「――レヴィニア公国のアマデウス・レヴィニア公についてだ」
その名が出た瞬間、テーブルの温度が数度下がったかのように空気が沈んだ。
エヴァン中佐が機密資料を広げ、声を潜めて告げる。
「我々が掴んだ懸念は三つ。一つ、あちら側で活発化している反王政派との接触疑惑。二つ、北方における不審な武器流通ルートに、レヴィニアの名義が介在していること。そして三つ目は……」
エヴァン中佐が視線を上げ、オルヴァンを真っ直ぐに見据えた。
「『ヴェルディア大公家の内情が漏洩している』という疑いだ。漏洩の速度が不自然に早い。内部に手引きする者がいると見るのが妥当だろう」
オルヴァンは表情を変えず、指先でグラスをゆっくりと回した。
「既に市井にも噂が流布しています。……叔母の口から、公式発表より先にその名を聞かされましたよ。一般市民の耳に届く速度としては、異常と言うほかありません」
少将が「ふん」と鼻を鳴らし、琥珀色の酒を煽る。
「軍内部の情報共有より、路地裏の噂話の方が早い……か。相当に深く食い込まれているな」
「ええ、その線が濃いでしょう。……たとえレヴィニア公が糸を引いているにせよ、国内に有能な協力者がいるのは確実です」
エヴァン中佐が腕を組み、苦々しげに付け加えた。
「問題は、ヴェルディア大公家に対する『悪評の火種』が、意図的にばら撒かれている形跡があることだ。狙いは王政への不信感か、外交上の揺さぶりか……あるいはその両方か」
少将が節くれ立った指で、規則的にテーブルを叩く。
「オルヴァン。お前の目にはどう映る。レヴィニア公の狙いは何だ?」
オルヴァンはグラスを置き、思考を研ぎ澄ますように間を置いてから答えた。
「……ヴェルディア大公家の社会的信用を失墜させること。そして、民衆の不安を煽り立てること。この二つが同時に成立すれば、軍は『内側の火消し』に戦力を割かざるを得なくなります」
「外敵との衝突を避けたい我が国にとっては、最悪の
中佐の言葉に、少将は眉間に深い皺を刻み、喉の奥で唸った。
「レヴィニアめ……こちらが『平和のために自制する』ことを見越して仕掛けてきている。実に厄介な相手だ」
重苦しい沈黙が卓上を支配した。
壁に飾られた女神セラフィーリア像と、ふいに目が合った。
その瞳には本来、淡い金の塗料が引かれているに過ぎない。しかし、ランプの火影が揺らめいた刹那――。
無機物であるはずの像の瞳が、命を宿した生き物のように、深く、鮮やかに瞬いた気がした。
切実な訴えを視線で送っているかのように。
オルヴァンの背筋を、理由の知れない悪寒が走り抜けた。
不穏な沈黙を破ったのは、店主の静かな足音だった。彼はこうした重苦しい会合に慣れきっているのか、気まずい空気を壊すことのない絶妙な所作で、そっとオリーブの皿を置いていった。
そのわずかな物音に、少将が再び口を開く。
「――いずれにせよ、もはや傍観は許されん。だが、軍の会議室で語るには耳が多すぎる。……ゆえに、今日ここで集まった」
オルヴァンは不自然な感覚を振り払うように小さく頷いた。
「了解しています」
エヴァン中佐も、決意を秘めた面持ちでグラスを持ち上げる。
「情報の出どころを、こちらも洗い直しましょう。あちらが『仕掛けてきた』というのなら、相応の応報を準備せねばなりません」
少将が最後に、短く、そして重く告げた。
「レヴィニアの狙いは読めてきた。……既に食い込まれている分、こちらが不利なのは否めん。だが、このまま一方的に防戦を強いられるつもりもない。……奴らの算段を狂わせ、盤面を引っくり返すぞ」
少将の言葉に、オルヴァンはグラスを置くと、低く淀みのない声で応じた。
「既に、諜報部のヨアヒム・ヴァイスハイト中尉を動かしています。同期の
「……正式な命令系統は通していないな?」
エヴァン中佐の声は低く、咎める調子ではなかった。
「ええ。ですから“まだ”報告書には載りません」
その言葉に、迷いはなかった。
若き尉官の、先を見据えた独断。それは軍規の枠を危うく踏み越えるものだが、今の状況下では何よりも頼もしい一手だった。
「……ヨアヒムか。あの『耳の早い』男を既に放っているとはな」
エヴァン中佐が感心したように口角を上げる。オルヴァンは表情を崩さず、続けた。
「彼が尻尾を掴み次第、私自身が現地へ潜ります。……軍内部の記録に残らぬ形で、確実な裏を引いてくるつもりです」
自ら敵の懐へ飛び込むという宣言。その瞳には、かつて峻険な山々を単独で踏破した山岳兵時代の、鋭く静かな闘志が宿っていた。
「よかろう。表の火消しは我々が引き受ける。お前は影に潜り、奴らの喉元を狙え」
少将の言葉とともに、三人のグラスが重く触れ合った。
琥珀色の水面に揺れるランプの火。それは、王国を覆う巨大な闇を焼き払うための、小さくとも消えぬ反撃の火種であった。
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