第二話「静かなる刃」
群衆のざわめきに戻ったその時、通りの中央で騒ぎが起きていた。
祭りの笑い声を裂くように、怒鳴り声が響く。
「下郎ども! 道を空けろ!」
オルヴァンは声の主を見やり、内心で深く嘆息した。
(噂をすればこれか……)
ヴァルハラート家の次男 アルヴェリク・フォン・ヴァルハラートの息子。
クラウス・フォン・ヴァルハラート――後継者候補と目される男だ。
群衆を押し分け進む姿は高身長で堂々としているはずなのに、どこかだらしなく緩んで見える。
肩幅こそ広いが、贅の生活で形の崩れた胴が軍人の威厳を台無しにしていた。
漆黒の髪は後ろに撫でつけているものの、油と酒でべったりと光り、
灰色の瞳は血走り、眠たげに半ば落ちている。
贅を尽くした軍服はボタンを二つ外し、胸元からは金鎖と宝飾が覗く。
夜会で着るような赤い裏地のマントを翻し、指にはいくつもの指輪が嵌められ、歩くたびに香水と酒の匂いが、祭りの晴れやかな空気を汚していく。
懐中時計の金鎖が陽光にぎらつく様は、まるで自らの財力を誇示する枷のようだ。
クラウスが笑うたび、その軽薄な唇の端から権力への隠しきれない飢えが漏れ出す。
彼は、オルヴァンが血反吐を吐いて守ってきた「軍人の誇り」を、最も無価値なものとして踏みにじる存在だった。
オルヴァンは無意識に背筋を正した。
クラウスは、“ヴァルハラート家の血統”を象徴する忌々しい存在であり、
そして、誰よりも危険な男だった。
彼が歩みを進めるたびに、母親は子を抱えて後ずさり、老人は震える手で杖を握りしめる。
屋台の菓子籠が蹴散らされ、砂糖菓子と花びらが石畳に散らばった。
子どもが泣き声を上げると、護衛の兵士が無言で睨みつけ、母親は必死に口を塞いだ。
「ヴァルハラートの名を知らぬか! 俺の前を塞ぐな!」
クラウスの怒声が広場を震わせ、群衆は一斉に顔を伏せた。
恐怖が石畳に重く垂れ込める――その時。
「……なるほど。これが“ヴァルハラートの威光”ってやつですか」
振り返った者たちが息を呑む。
建国際のために仕立てられた漆黒の軍服。その上に、彼が滅多に纏うことのない礼装用の青いマントが静かに揺れる。
軍帽の
――“紫眼の尉官”オルヴァン・レーヴァテイン大尉。
クラウスの放つ獣じみた剣呑さとは正反対に、
彼の存在は“音もなく刃を抜いた”かのような静かな緊張を生んだ。
怒号で場を支配するクラウス。
沈黙で空気を縫いとめるオルヴァン。
その対比に、群衆の誰もが言葉を飲み込んだ。
オルヴァンは懐から取り出した銀時計を、無造作に指先で弾いた。
チチッ、と小さく時を刻む音が、クラウスの怒声で支配された広場に、冷徹な秩序の楔を打ち込む。
「子どもを泣かせ、女を怯えさせ、屋台を蹴散らす。……山岳の野犬でも、もう少し威厳を知っていますよ。ヴァルハラートの誇りとは、これほど安売りされるものだったとは」
その声は低いが、驚くほどよく通った。祭りの喧騒を裂く銃声のような鋭さではなく、霧のようにじわじわと、だが確実に群衆の思考を塗り替えていく静かな浸透力があった。
一瞬、広場にざわめきが走った。
恐怖に押し潰されていた空気に、微かな波紋が広がる。
最初は小さな囁きだった。
「……本当にこれが威光なのか?」
「ただの暴れ者じゃないか……」
囁きは鎖のように繋がり、沈黙の中に疑念が広がっていく。
その声はクラウスの耳にも届いた。
彼の顔が紅潮し、怒りに歪む。
「黙れ! 尉官風情が俺を侮辱するか!」
だがその怒声は、先ほどのように絶対ではなかった。
群衆の沈黙は揺らぎ、恐怖の支配に小さな亀裂が刻まれていた。
オルヴァンの皮肉は、ただの言葉でありながら、権力の空気を一瞬だけ変えていた。
その時、一人の母親が子を抱きながら顔を上げた。
怯えながらも、その瞳にはわずかな疑念が宿っていた。
クラウスはそれを見逃さなかった。
「何だ、その目は!」
振り上げられた腕。怒気が炸裂する寸前――
瞬間、低く芯のある声がその場の空気を斬った。
「クラウス卿。建国祭の会場で、市民に手を上げるご予定ですか?」
群衆の視線が一斉に声の主へ向く。
オルヴァンの眼差しは氷のように冷えているのに、
しかしその背に、母子は明らかな“安堵”を感じ取った。
彼は一歩だけ前へ出て、自然と母子を庇う位置に立つ。
マントの裾が風に揺れ、軍帽の
その姿は、怒号で押し潰されかけていた空気に一筋の緊張を取り戻した。
オルヴァンは一歩、吸い込まれるような足取りで踏み出した。
その動きは攻撃的ではないが、クラウスの振り上げた腕を、目に見えぬ力で凍りつかせるほどの威圧感があった。
「軍人は敵を討って武名を立てる。だが、非武装の市民を害し、その恐怖で自尊心を満たす者は――敵よりなお卑しい」
軍帽の奥、紫水晶の瞳がクラウスを射抜く。
「その名は武名ではなく、歴史という名の帳簿に『恥』として刻まれる。……ヴァルハラートの名を、貴方の代で終わらせたいのであれば、どうぞその腕を下ろしてください」
オルヴァンの声は低く、張り上げることなく、しかし刃のように鋭かった。
その静けさが逆にクラウスの怒声よりも場を支配した。
クラウスの顔がひきつり、怒りと屈辱が渦巻く。
「黙れ!! ローエングラートの飼い犬が!!」
喚くと同時に、取り巻きの護衛兵が一歩前へと踏み出した。
剣の柄に手をかける者さえいる。
しかし、広場に響いたのは金属音ではなく――
オルヴァンの淡々とした追撃だった。
「飼い犬でも“主を選ぶ目”くらいはあるつもりです。……少なくとも、自らの権威を誇示するために弱者を踏みつけるような方を、主人と見間違えるほど節穴ではありませんよ」
クラウスの背後で剣に手をかけた護衛兵たちが、オルヴァンの射抜くような視線に一瞬たじろいだ。
「……それに、忘れておられるようだ。ここは建国祭。各区の監察官が目を光らせ、些細な不祥事すら本省の
広場の空気が、はっきりと変わった。
群衆の間に微かなざわめきが走る。
「……ほんとにやりかねないよな、あの人」
「でも、この人が味方なら……」
「さっきの言い方、すごく冷たいのに……安心する……」
囁きはもはや疑念ではなく、“支持”に近い空気を帯びていた。
護衛兵たちも、オルヴァンの階級章と冷える視線を確認し、
次の一歩を踏み出せなくなる。
クラウスの顔が怒りと羞恥で真っ赤になる。
「……覚えていろ。ローエングラートの庇護が無ければ、孤児上がりが俺に口を利けると思うなよ!」
その言葉を投げ捨て、クラウスは逃げるように背を向けた。
オルヴァンは一歩も動かず、ただその背中を氷のような視線で追う。
「ええ。どうぞ、お好きな時に。……ただし、その言葉が『騎士の誇り』に基づいたものか、あるいは単なる『負け犬の遠吠え』なのか、その点については慎重に吟味されることをお勧めしますよ」
オルヴァンの静かな声が、去りゆくクラウスの背に冷たく突き刺さる。広場を支配していた恐怖は、今や一人の尉官がもたらした「理知的な秩序」へと書き換えられていた。
花びらの散らばる石畳の上に、彼らの踏み荒らした足跡だけが残る。
沈黙を破ったのは、抱き上げていた子どもが漏らした小さな泣き声だった。
それは恐怖ではない――拘束から解き放たれた安堵の涙だった。
「……助けて、くださったのですか……」
母親が震える声で、ようやく言葉を絞り出す。
オルヴァンは短く息を整えると、子供の頭へそっと手を置いた。その手つきだけは、鋼を握る軍人のものとは思えぬほど、柔らかな慈しみに満ちていた。
「怖い思いをさせてしまった。帝国軍人として、不手際を謝罪します。」
その声音は低く、よく通り、逆らいがたい威厳があった。
しかしそこに、家名の誇示も、貴族的な傲慢さも一切ない。
オルヴァンは呆然と立ち尽くす屋台の店主へ、規律正しく頭を下げた。
「破損した物品の賠償は、私個人が責任を負います。請求書は軍経理局へ提出してください。この私が、確かに証人を務めます」
あえて名門“ヴァルハラート”の名を口にすることはない。
だが、その背中から滲み出す潔癖なまでの誠実さが、何よりも雄弁に彼の素性を物語っていた。
険しい表情のまま、ただ任務を果たすように淡々と対応する青年軍人――
その背中から、奇妙なほど純粋な 誠実さ がにじみ出ていた。
気圧されたように息を呑んでいた群衆の間から、誰かの小さな呟きが零れた。それを皮切りに、讃嘆のざわめきが静かなさざ波となって広がっていく。
「……あれが、噂の青年将校か」
「レーヴァテイン大尉……あんな御仁だったのだな」
「威張り散らすだけの貴族より、よほど軍人らしい」
「目は怖いが、不思議と安心する声だ。……守り手の声だよ、あれは」
屋台の陰から注がれる視線さえ、今や明確な「憧憬」の色を帯びていた。
オルヴァンはそれらの視線を気にかける様子もなく、ただ軍帽の
見送る人々の胸には、共通した一つの疑念、そして確信が去来していた。
――あれを、誰が「飼い犬」などと呼んだのか。
――いや、違う。
――あれこそが、国を背負う軍人の背中だ。
建国祭の夜が更ける頃、その噂は風に乗るようにして、王都の隅々にまで届こうとしていた。
◆
広場から追い立てられるように退散したクラウスは、夜会服の豪奢な刺繍が擦り切れるほどの勢いで、マントを乱暴に払いのけた。
迷い込んだのは、喧騒の届かない薄暗い路地裏だ。
護衛たちが気まずそうに距離を置く中、クラウスは壁に拳を叩きつけ、獣のような荒い吐息をついた。
「……クソッ、どいつもこいつも! あの出来損ないが……!」
灰色の瞳が怒りと屈辱で血走る。
「よくも……よくも俺の面前で、あのような泥を塗ってくれたな、オルヴァン……!」
微かに震える指が、銀の懐中時計を苛立たしく弾いた。金属の硬質な音が路地に空虚に響く。
「従兄の分際で、身の程もわきまえず……。ローエングラートの庇護を盾にせねば、息もできぬ寄生虫の分際で、俺に逆らいおって……!」
クラウスの中で、理屈はすでに霧散していた。
己が場を荒らしたことも、無辜の民を怯えさせたことも。すべては「オルヴァンが自分を侮辱したせい」という歪んだ論理へとすり替わっていく。
「孤児のくせに……拾われただけの、名もなき野良犬のくせに! あの目……! 俺を見下し、憐れむようなあの目だけは、断じて許さぬ……!」
再度、壁に拳を叩きつける。裂けた皮膚から、じわりと赤い滴が石畳へ零れ落ちた。
護衛の一人が、恐る恐る声をかける。
「クラウス様……本日はこれにてお引き取りを。これ以上騒ぎが大きくなれば、それこそ監察局が――」
「黙れッ!!」
耳を劈くような怒号に、護衛たちは石像のように凍りついた。
「従兄として、教育してやらねばならんようだな……。『格の違い』というものを、その骨の髄までな……」
その声にはもう、貴族としての威厳など欠片もなかった。
あるのは、剥き出しの嫉妬と焦燥が混ざり合った、湿った怨嗟だけだ。
「覚えていろ、オルヴァン。次に相見える時は、貴様のその傲慢な仮面を、完膚なきまでに叩き割ってやる……!」
背後で護衛たちが、絶望を隠すように目を伏せた。
“主人はまた暴走する”
拭いようのない確信だけが、重く淀んだ空気となって路地裏に取り残された。
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