第四話「黒鷲娼館事件ー前編ー」
黒鷲娼館事件
破滅の序章 ――逆恨みが形を持つまで
1.誇りではなく、血が傷ついた夜
建国祭の喧騒が遠のいた王都の夜。歓楽街の奥深くに構える《黒鷲娼館》は、祭りの余韻を貪る酔客の嬌声と楽師の奏でる不協和音に、いつも以上の熱を帯びていた。
だが、その最奥に位置するVIP室だけは、断絶された別世界だった。
厚手の絹のカーテンが外界の光を遮り、揺らめく蝋燭の炎が壁に歪んだ影を投じる。床には空の酒瓶が転がり、滞留した濃い紫煙が、空気をさらに押し潰すように満ちていた。
クラウス・フォン・ヴァルハラートは、豪奢な椅子を蹴倒して立ち上がった。
「……あのクソ生意気な、賤民の血が……ッ!」
その怒号は、しかしどこか悲鳴に近い震えを孕んでいた。
閉じた瞼の裏には、昼間の光景が焼き付いて離れない。
群衆を前に、剣を抜くことも声を荒げることもなく、ただ、氷のような沈黙と冷徹な論理だけで、
自分を完膚なきまでに突き崩した青年――オルヴァン・レーヴァテイン。
傷ついたのは、表面的な誇りなどではない。もっと根源的な「血」の尊厳であり、己の存在意義そのものが、あの男に脅かされているという戦慄だった。
(あいつは、……あいつだけは、“こちら側”にいてはならぬ男だ……)
名門ヴァルハラートの血を引く可能性を持つ、忌まわしき「孤児」。
それでありながら着実に軍功を積み重ね、
軍上層部の一部では――
「本家のクラウスより、あの軍犬こそが後継に相応しい」
とさえ囁かれている。
その噂を耳にした瞬間、クラウスの世界は赤く歪んだ。心臓の鼓動が耳を打ち、指先の震えが止まらない。
「叔父上も……父上もだ! 揃いも揃って、あの男の指先だけを……並べた手柄だけを見ていやがる!」
握りしめた拳の爪が掌に深く食い込み、じわりと赤い不浄な血が滲む。焦燥という名の劣等感が、今や「殺意」という名の仮面を被り、彼を破滅的な衝動へと突き動かしていく。
揺れる炎に呼応するように、壁の影が蠢いた。
それは、今まさに一線を越えようとするクラウスの心の形だった。
2.密室で形を成す悪意
《黒鷲娼館》の最奥。
外界の喧騒を完全に遮断した密室は、何重にも垂らされた絹のカーテンによって、窒息しそうなほどの静寂に包まれていた。揺らめく蝋燭の炎が、壁に集う者たちの影を異形のように引き伸ばしている。
そこに集められたのは、表の世界から爪弾きにされた七人の
脂ぎった額を執拗に布で拭う娼館の経営者。互いに視線を逸らし、後ろめたさを隠しきれない腐敗した下級将校が二名。元山岳部隊の崩れでありながら、野犬のような殺気を漂わせる私兵が四名。
隅では賭場の胴元が、指に嵌めた金の指輪を弄びながら、卑屈な薄笑いを浮かべている。
その中央に君臨するのは、クラウス・フォン・ヴァルハラート。
蝋燭の光に照らし出されたその横顔は、貴族の端正さを辛うじて保ちながらも、瞳の奥には拭い去れぬ焦燥が澱んでいた。
彼は居並ぶ者たちを一人ずつ
「オルヴァン・レーヴァテインを、完膚なきまでに叩き潰す」
その宣戦布告に、部屋の空気が一瞬にして凍りついた。
「手段は問わぬ。交友関係、金、女、密会……軍人としての生命を断つに足る『致命的な汚点』を掴め。無ければ、作ればよい」
王族の末端に繋がる男が口にするには、あまりに下劣な命令だった。だが、それを合図に卑しい計画が次々と卓上に並べられる。
執拗な尾行。収賄疑惑の捏造。女官を抱き込んでの偽証。機密書類紛失の濡れ衣……。
交わされる言葉はどれも低く、それでいて稚拙な焦りに満ちていた。策を練る者の指は微かに震え、媚びを売る者の笑みは引きつっている。
だが、独りよがりの万能感に酔うクラウスは、その綻びに気づかない。彼の耳には、己の言葉がすでに絶対的な運命として響いていた。
(……これでいい。これで、あいつは二度と這い上がれぬ
勝利の幻影に酔い、傲慢な笑みを浮かべるクラウス。
だが、その背後に潜む「真の毒」に、彼はまだ気づいていなかった。
密室の隅に控える一人の娼婦が、耳元に垂れた髪を弄りながら、冷ややかな視線をクラウスの背中に投げていた。彼女の袖の奥には、エドヴァルト大公代理の私印が捺された、多額の金貨の裏付けがある。
エドヴァルトの狙いは、単なる個人の失脚ではない。
現当主ヴェルトラム公爵には、二人の弟がいた。その弟たちの大切な息子、クラウスとオルヴァン。一族の未来を背負うべき「二人の甥」が醜く潰し合い、泥を啜り合うスキャンダルは、名門ヴァルハラートの誇りを内側から食い破る致命的な毒となる。
(……共倒れになればいい。どちらが勝とうとも、血を分けた親族同士の醜聞は、ヴェルトラム公爵の指導力を根底から覆す)
厳格で知られるヴェルトラム公爵。
彼が「身内の不始末」を巡って政敵から糾弾され、苦悩の末にその権威が失墜する瞬間を、エドヴァルトは暗闇から静かに待ち望んでいた。
クラウスが振りかざそうとしているその刃は、憎きオルヴァンを殺すためのものではない。
自らの家名と、伯父である公爵の未来を切り刻むための「死神の鎌」に他ならなかった。
蝋燭の炎がふっと揺れ、短くなった芯が油の中に沈んだ。
甘い香の向こうで、国家を揺るがす破滅の序曲が、着実にその音量を増していた。
元山岳部隊の私兵の一人は、拳を強く握りしめたまま、微動だにせず伏し目がちに立っていた。
彼の脳裏には、十年前の凍てつく冬の山嶺が鮮明に蘇っていた。
十五歳の少年兵だったオルヴァンは、猛吹雪の雪崩地帯で、周囲が止めるのも聞かず絶壁に挑んだ。その姿は、手柄を求める英雄などではなかった。ただ、何かに取り憑かれたように、死の淵にいた私兵の身内を泥臭く引き摺り上げたのだ。
救助を終え、名誉章を授与された際も、少年の瞳には色鮮やかな喜びなどなかった。
そこにあったのは、父の「家族を守れ」という遺言を果たせず、入隊の朝に冷たくなった弟を抱きしめることしかできなかった、孤独な少年の「贖罪」の色だった。
彼は、自らの家族を救えなかった埋め合わせをするように、他人の命を繋ぎ止めることだけに、その若すぎる人生を費やしていた。
(……大尉を、こんな泥沼で死なせはしない。あの時、私の家族を救ってくれたあの手を、今度は私が守る番だ)
クラウスが口にする醜悪な計画のすべてが、私兵の記憶に深く刻まれていく。
この密室でただ一人、魂を燃やして報告の時を待つ者がいた。
3.追えぬ影
建国祭の余韻を吸い込んだ王都の夜は、どことなく冷え冷えとした静寂を取り戻していた。石畳には街灯の残光が
その深い闇の中、外套に身を包んだ二人の男が足音を殺し、オルヴァンの背を追っていた。だが、その動きは「追跡」と呼ぶにはあまりに無作法で、稚拙に過ぎた。
角を曲がった刹那、彼らの視界から人影が音もなく消失した。まるで夜そのものに溶け、大気に吸い込まれたかのように。
「……消えた? どこだ、どこへ行った!」
焦燥が声に滲み、乱れた吐息が白く散る。二人は顔を見合わせたが、そこにあるのは底知れぬ困惑と、得体の知れぬ恐怖だけだった。
その時、オルヴァンは既に影から影へと渡り、街灯の死角を縫うようにして彼らを完全に撒いていた。かつて峻険な山嶺を
翌朝。軍情報部の私室には、尾行者たちの詳細な身元と経歴が記された書類が整然と並んでいた。
報告書の紙面はどこまでも白く、事実だけを無機質に羅列している。
オルヴァンはそれらに目を通し、短く、冷ややかな息を吐き出した。
「……あの男。尾行などという真似事をさせるなら、せめて夜目の利く者を使えばいいものを」
声は低く、酷く落ち着いていた。だが、紙を閉じる指先には、確かな苛立ちが宿っていた。それは己の身を案じる者のそれではなく、あまりに「雑な仕事」を押し付けられた、
差し込む朝陽が、彼の横顔に鋭い影を落とす。その影の深さは、追えぬ者たちの無力さを嘲笑うかのように、どこまでも濃かった。
4.泳がせる理由
軍本部、重厚な扉に守られた執務室。
深夜の静寂を抱えながらも、室内には逃げ場のない緊張が満ちていた。机上に散らばる地図や報告書の端を、揺らめく蝋燭の炎が赤く舐めている。
ローエングラート少将は剥き出しの苛立ちとともに、拳で机を叩いた。重い衝撃音が壁を伝い、時計の針の刻みさえ一瞬、呼吸を止めたかのようだった。
「……クラウスが動いている。揃った証言も、
低く抑えられた声には、隠しきれない怒気が滲んでいた。
「承知しております」
オルヴァンは即答した。直立不動の姿勢を崩さず、軍帽の影に沈んだ瞳は微塵も揺るがない。
「――お前、大丈夫なのか?」
少将の問いは、懸念というよりは戦力としての確認に近かった。
「大丈夫ではありません。ですが、問題はありません」
矛盾した答えに、少将が不審げに眉をひそめる。
「……同じことだろう」
「いいえ。私が安全である必要はありません。任務が、制度に則って遂行されれば、それで完結します」
重苦しい沈黙が降りた。蝋燭の炎が激しく
やがて少将は、吐き捨てるように呟いた。
「……お前は、本当にヴァルハラートの血だな。その傲慢なまでの潔癖さは」
オルヴァンは軍帽の
「私が教えられたのは血の誇りではなく、果たすべき『義務』ですので」
その声音は絶対零度の氷のように澄んでいた。
彼は既に、クラウスが張り巡らせた策の大半を掌握している。だが、あえて芽を摘まず、沈黙を守り続けている。
――動けば動くほど、それは逃れ得ぬ証拠という名の首輪になる。
踊り狂う炎の影が、彼の冷徹な決意を祝福するかのように壁を舐めていた。
少将が退出を許可し、重厚な扉が閉まった後、オルヴァンは一人、静まり返った執務室に残された。
彼はデスクの椅子に深く背を預けることもなく、ただ軍帽を机に置いた。
彼の身の回りには、生活の痕跡を拒むかのように私物がない。私服すら、ローエングラート少将が半ば強引に仕立てさせたスーツが数着あるだけだ。
12歳のあの日。両親の遺品も、葬儀に出ることすら叶わなかった弟の面影も、すべてを自ら断ち切った。家族を守れなかった自分が、それらを持つ資格などない。そう信じて、思い出の一切を叔母に預け、戦場へと足を踏み入れた。
だが、軍服の左胸のポケットには、唯一、ずっしりとした重みが居座っている。
父の遺した銀時計。
かつて叔母に、「これを父の親戚に返してほしい」と託したものだ。しかし、叔母はそれを先日オルヴァンの手に押し戻した。
その時計は彼の胸元にある。
それは慈しむための品ではない。いつか伯父である元帥と対峙した際、この無様な人生に区切りをつけ、返却すべき「未完の義務」そのものだった。
「……持ちすぎると、動きが鈍くなる」
誰に聞かせるでもなく、彼は独りごちた。
私物を持たないのは、身軽でいるためではない。いつすべてを失っても、心が砕けないようにするための「生存戦略」だ。だというのに、この銀時計という重りだけは、常に彼の鼓動を、逃れられぬ過去へと繋ぎ止めている。
オルヴァンは冷えた指先で、軍服越しに時計の輪郭をなぞった。
執着すべきものがないからこそ、彼は誰よりも冷徹に戦える。だが、左胸に宿るその鈍い重みだけが、彼がまだ「人間」であることを、残酷なまでに主張し続けていた。
5.逆流する噂
放たれた偽りの噂は、毒液のように静かに貴族院へと浸透していった。だが、クラウスが待ち望んでいた糾弾の嵐は、どこまで待っても吹き荒れる兆しを見せなかった。
「……オルヴァン・レーヴァテインが収賄? あの男がか」
「笑えぬ冗談だ。私欲どころか私物すら持たぬあの男が、金を得て何を買うというのだ。戦場でも手放さぬという、あの紅茶葉でも買い占めるつもりか?」
重厚な絨毯に吸い込まれる議場の囁きは、疑念ではなく、現実味を欠いた滑稽さへの嘲笑に近かった。
オルヴァンが唯一、嗜好品として嗜むのが紅茶であることを、知る者は知っていた。泥にまみれる戦場にあっても、湯気の向こうにだけは亡き父と過ごした安らぎの記憶があった。ブランデーを一滴垂らし、香りを愉しむ――。その静かな時間こそが、彼を「軍犬」ではなく「人間」に繋ぎ止める唯一の錨なのだ。
そのささやかな聖域を、汚泥に塗れた金で汚す男ではない。
周囲の誰もが、彼の潔癖すぎるほどの私生活を信頼していた。
「むしろ、問題なのは……」
言葉が濁り、誰かが冷ややかな視線を投げた。
「……このような稚拙な策を弄している、クラウス殿下の側ではないか?」
その一言は、静かな水面に落とされた小石のように、不穏な波紋を広げていった。
その裏で、ヴァルハラート家の特務員たちは、無機質に記録を更新し続けていた。噂の発生源、金の流れ、蠢く人影――。証拠の鎖は、一人の首元へ静かに、そして確実に巻き付こうとしていた。
その頃、クラウスは自失したように酒を煽っていた。グラスの縁で揺れる赤い液体は、彼の荒い呼吸に呼応して醜く波打つ。
(なぜだ……なぜ、あいつが堕ちない……!)
喉を焼く火酒は、焦燥を鎮めるどころか、彼の狂気をさらに焚き付けた。
父の期待に応えねばならぬという強迫観念。オルヴァンと比較され、透明な壁の向こうに追いやられる恐怖。存命であるがゆえに重くのしかかる「父」という名の圧力が、彼をさらなる暴走へと駆り立てる。
歪んだ視界の先、壁に飾られた鏡が、己の惨めな姿を映し出す。
亡き父の銀時計を胸に抱き、その教えを「義務」として全うする孤高の男。対して、存命の父に怯えながら、己のプライドを守るために一族の威信を切り刻む男。
その決定的な「魂の格差」が、目に見えぬ敗北としてクラウスに襲いかかっていた。
破滅の影は、既に彼の背後に音もなく立ちふさがっていた。
6.噂は議場へ昇る
噂というものは、発生の瞬間こそ霧のように曖昧なものだ。出所は知れず、責任の所在も定まらない。だが、金と明確な害意によって磨かれた噂は、それらとは一線を画す。それは生き物のように、自らを最も高く売り込める“居場所”を求めて這い回るのだ。
貴族院の回廊は昼下がりでも薄暗く、重厚な石壁はあらゆる音を深く吸い込む。それゆえに、そこで交わされる囁きは不自然なほど明瞭に響き、まるで壁そのものが悪意を運ぶ導火線となっているかのようだった。
「――聞かれましたか。あのレーヴァテイン尉官の
「ええ。黒鷲娼館に入り浸りだとか」
「女官の買収に、部隊の私物化……。普段の潔癖さは、単なる仮面だったというわけですな」
一人が種を蒔き、もう一人が水をやり、三人目が「まさか」と首を振る。だが、その「まさか」が「あるいは」という疑念に変わるまでに、さしたる時間は必要なかった。
噂の源流は、娼館の寝所や賭場の隅、あるいは不逞な下級将校の酒席といった
それらが議会という清流に流れ込む頃には、不思議と「精査された事実」という欺瞞の体裁にすり替わっていた。
「……以前の、クラウス卿の失策の折と、酷く流れが似ているな」
ある老議員が、吐息のようにぽつりと漏らした。その掠れた声は、回廊の石壁に反響して鋭い刃となり、周囲の空気を一瞬で凍りつかせた。
「……左様でございますか?」
「ああ。以前、彼が醜聞を露見させた際と……同じ娼館、同じ記者、同じ胴元が動いている。あまりに、手癖が悪すぎる」
広がる沈黙は、もはや疑念ではなく、確信への序曲だった。
噂は標的を汚すが、同時に、それを流した者の「知性の欠如」をも露わにする。議場の半数は、既に薄ら寒い真実に気づき始めていた。
――誰かが、あまりに安直な手口で、意図的にこの場を操ろうとしている。
そして、その“誰か”の名を挙げるまでもない。
父の期待に怯え、従兄への嫉妬に狂った男が、自らの首を絞めるために編み上げた稚拙な鎖。その最果てに待つ絶望を、老議員たちは冷ややかな、見世物を見るような瞳で待ち受けていた。
7.被害妄想という城
《黒鷲娼館》の最奥。深紅の絨毯に覆われた密室は、豪奢を極めているはずなのに、今は息の詰まる牢獄のようだった。揺らめく蝋燭の炎が壁に投じる影は、棘だらけの王冠のようにクラウスの周囲を歪に囲んでいる。
クラウスは火酒を煽り、荒々しくグラスを机に叩きつけた。重い衝撃音が、不吉な予振のように室内に響く。
「……おかしい。何かが、致命的に狂っている」
掠れた声には、制御不能な焦燥が混じっていた。
「噂は……俺が命じた通りに流れているはずだ。なぜ、あいつの首が飛ばない……!」
傍らの主人は、言葉を選びあぐねた末に低く応じた。
「……ええ、確かに。ですが、どうも逆に辿られ始めています。噂の“質”が、あまりに議会向けに整いすぎている。裏で手際よく糸を引く人間が、我々の想像以上に――」
「違うッ!!」
クラウスが机を激しく叩き、蝋燭の炎が消えかかるほどに揺れた。
「それは……オルヴァンだ! あの忌まわしい『孤児』の仕業だ!」
その名を口にした瞬間、彼の中で、歪んだパズルのピースが音を立てて噛み合った。
(最初から……そうだったのだ)
(あいつは、あまりに静かすぎた。噂を流されても、反論の兆しすら見せなかった)
(つまり――)
「俺を……泳がせていたというのか……!」
恐怖が理解へと、理解は制御不能な妄想へと加速していく。
「あいつは最初から、俺が動くことを予見していた……! 影で俺を嘲笑いながら、罠を編んでいたのだ!」
鏡に映る己の顔は、屈辱で醜く歪んでいた。背後の赤い絨毯の色と混じり、まるで鮮血の中に沈んでいるかのようだった。
「叔父上も……伯父上までもがグルか。ヴァルハラートの家名を継ぐのは、俺ではなく『あれ』だと決めているのか……!」
そこへ、青ざめた私兵が報告に入った。
「……クラウス様。ヴェルトラム元帥が、調査官の派遣を決定されました。既に憲兵隊が――」
「来る前に、潰す」
即答だった。声は恐怖に震えながらも、狂気という名の刃を研ぎ澄ませていた。
「潰さなければ……俺が『悪』にされる! あいつに、俺の居場所を奪われる……!」
彼の世界において、自分は常に、不当に虐げられた「被害者」でなければならなかった。
堕落は不運ゆえ、失敗は卑劣な策謀ゆえ、正当な裁きは残酷な迫害ゆえ。
そう信じ込まなければ、己の精神が瓦解してしまうからだ。
蝋燭の炎が大きく揺れ、影が巨大な城壁のように広がった。だがその城は、妄想と嫉妬で築かれた砂の城に過ぎない。潮が満ちれば、音もなく崩れ去る運命の。
8.制度という名の刃
軍本部執務室。
重厚な扉によって外界と隔絶された空間は、微かな蝋燭の爆ぜる音と、乾いた紙の匂いに満ちていた。机上に整然と並べられた書類の余白が、冷徹な光を跳ね返している。
オルヴァンは直立不動の姿勢を崩さず、無機質な声音で報告を続けた。
「噂の源流は《黒鷲娼館》。資金経路は複数の賭場を複雑に経由していますが、最終的な発信源はすべてクラウス卿へと回帰します」
ローエングラート少将は、組んだ指の隙間から鋭い眼差しを向け、静かに頷いた。
「……証拠は揃っているのか」
「金の流れ。買収された私兵の動向。捏造に加担した偽証者の供述書。すべて、法廷で耐えうる精度で揃えてあります」
オルヴァンが机上に置いた紙束の音は、抜き身の刃が鞘を滑る音にも似ていた。そこには一切の情念が挟まる余地のない、残酷なまでの「事実」だけが羅列されていた。
「……お前に、私情はないのか」
少将が、あえてその深淵を覗き込むように問うた。
一瞬、室内の空気が凝固した。揺らめく炎が二人の影を壁に長く引き伸ばし、奇妙な静寂が思考を急かす。
オルヴァンは瞬き一つせず、短く、断定的に答えた。
「ありません」
それは、一点の曇りもない真実だった。
「私は、一度も噂を否定しませんでした。感情的に否定すれば、それはただの親族間の『争い』に成り下がります」
「では、お前は何を求めている」
「制度による適正な処理を」
その声は氷のように冷たく、しかし一点の揺らぎもなかった。
彼のやり方は、ある意味ではクラウスの暴力よりも冷酷だった。だが、同時にこれ以上なく公平でもあった。
制度という名の刃は、血筋や家柄を考慮せず、ただ事実という肉だけを切り裂く。
オルヴァンはその刃の柄を握りしめ、己の心を鋼の奥に封印したまま、ただ淡々と、完遂すべき「義務」を遂行していた。
君の名をほどくまで 海霧 @uzura-
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