君の名をほどくまで
海霧
第一話「建国祭」
序曲
蒸気が白い煙を吐き上げ、ヴェルディア帝国の王都の空を薄霞のように覆っていた。
胸の奥を震わせる鐘の音がこだまし、軍靴の規則的な響きが石畳に沈んだ熱を刻む。
王政と貴族による軍国主義が国を支え、街は近代化の波に呑まれつつある。
だが――人々が最後にすがるものは鉄でも蒸気でもなかった。
桜色の髪、花緑青の瞳。
建国の女神セラフィーリアがこの地を去る際に遺した「加護の欠片」。
それを宿す者を、民は今も「女神のいとし子」と呼び、国家の心臓として崇めた。
女神のいとし子は、いまや三十代の皇族ただ一人。
三十年もの間、新たな象徴は生まれていない。
神殿も王家も焦燥を隠せず、国の心音は静かに乱れ始めていた。
◆
建国祭の朝。
群衆のざわめきが波のように揺れる中、白の神官服をまとった男性が女神像の前に立つ。
一房の桜色の髪が陽光を受けて光り、花緑青の瞳が祭壇の炎を映す。
祈りの声が響くたび、人々は息を呑んだ。
まるで止まりかけた国家の鼓動が、再び打ち始めるかのように。
祈りの余韻に重なるように、軍楽隊のパレードが城下を進む。
銃剣の金属音と楽団の旋律が混じり、宗教の荘厳さと軍事の威容が同じ道を並び歩いた。
この国の矛盾と均衡――そのすべてが祝祭の中に露わになっていた。
◆
その頃、軍本部では昇進式が粛々と進められていた。
「オルヴァン・レーヴァテイン中尉。
本日付で大尉への昇進を命ずる」
ローエングラート少将の声は朗々としている。
しかし、周囲の士官たちの視線には単純な祝意だけでなく、別種の色も混じっていた。
「二十五歳で大尉か」
「山岳出身の……少年兵だったと聞いたぞ」
「詳しい経歴は――」
「……あれは本当なのか?」
囁きは風のように流れ、すぐに消えた。
本人に届く前に沈む、その曖昧さがかえって不気味だった。
オルヴァンは表情を崩さないまま、一歩進み出る。
「拝命いたします。」
端正な敬礼が返され、式は淡々と閉じられた。
第一章 「建国祭」
王都は建国祭の熱気に包まれていた。
女神のいとし子が祈りを捧げ、軍楽隊の勇壮な行進が石畳を震わせる。
空には花びらが舞い、祭りの空気に呑まれた子供たちが、高い歓声を上げながら賑やかな通りを走り抜けていく。
式典用の軍服にを身を包んだオルヴァンが、同僚ヨアヒム・アルブレヒト・フォン・ヴァイスハイト中尉と肩を並べて歩く。
オルヴァンの整った顔立ちと、隙のない立ち姿は、祭りの喧噪の中にあっても、否応なく人々の視線を集めていた。
だが、彼の胸の奥は妙にざわついていた。
警鐘と呼ぶには曖昧で、直感と片づけるにはあまりに生々しい。
理由を探そうとすればするほど、指の間から逃げていく類の、本能的な焦燥。
オルヴァンは無意識に歩調を早めた。
まだ間に合う――はずだ。
だが、「待つ」という選択肢だけは、最初から彼の思考回路には存在しなかった。
(今動かなければ、医務室送りでは済まないことが起きる)
そう確信していた。
正規の手段を踏めば、説明を求められ、証明不能な予感を語り、異常と判断されて拘束される。その空白の時間に、取り返しのつかない「何か」が起きる。
だから彼は、正式な窓口を素通りし、隣を歩く男に懸けるしかなかった。
祭りの喧騒が会話をかき消す刹那、オルヴァンは声を潜めてヨアヒムに切り出した。
「……ちょっと、規則に優しくない頼みがある」
ヨアヒムは眉を跳ね上げた。
書類も命令書も持たぬオルヴァンの瞳に宿る光を一目見て、すべてを察したらしい。
「開口一番それか。内容によっては、俺も道連れだぞ」
「大丈夫だ。捕まるのは俺一人でいい」
軽く言ってみせたが、冗談で済まないことは互いに分かっている。オルヴァンは自嘲気味に肩をすくめた。
「理由は言えない。言った瞬間、俺は精神科(白衣)行きだ」
「……なるほどな。お前のその顔は、いつも厄介事の連れ子だ」
「だが」
オルヴァンは一歩だけ距離を詰め、熱を帯びた声で続けた。
「今動かないと、間に合わない気がするんだ。……気がする、だけで動くのが軍人失格なのは分かっている。だが、足が止まらないんだ」
選択肢は、もう残っていない。
「だから同期のお前に頼むしかない。……賭ける価値はあると、思わないか?」
ヨアヒムは短く息を吐き、視線を雑踏へと逸らした。そして、静かに、決意を滲ませて言う。
「……失敗したら監査が来るぞ。お前も、便宜を図った俺も、無事じゃ済まん」
「ああ、承知の上だ」
オルヴァンは笑った。
逃げ道を自ら断った人間だけが浮かべる、晴れやかな笑みだった。
「それでも、今じゃなきゃ駄目なんだ――」
「……オルヴァン?」
喧騒の向こうから、少し掠れた懐かしい声がした。振り返ると、歳を重ねた女性――叔母が立っていた。
「叔母さん…?」
叔母とは、十二歳の時に軍に入隊して以来の再会だった。
「久しぶりね。貴方の祖父の若い頃にそっくりで……一瞬、時間が巻き戻ったのかと思ったわ。」
「十三年…ぶりですかね。少し話していきますか?」
同僚に「すぐ戻る」と告げ、オルヴァンは叔母の腕を軽く取って歩き出す。
その所作は軍人らしい節度を保ちながらも、不意に礼儀正しい気遣いを感じさせた。
「お勧めの店があります。ケーキも紅茶も旨いんですよ、ご婦人」
「もう……そんな言い方、誰に似たのかしらね」
テラス席に落ち着くと、祭りの喧噪がゆるやかに遠のいていった。
オルヴァンは軍帽を外し、音を立てないようにそっとテーブルへ置いた。
額を出し、きっちりと整えられた髪が、彼の怜悧な美貌をいっそう際立たせる。
陽光を透かすその瞳は、冷徹な軍略を練る時とは異なり、深い紫水晶の静謐を湛えていた。
漆黒の式典用軍服。金糸の飾緒がテラスに差し込む光を跳ね返し、左胸の略章が彼が潜り抜けてきた「鉄と硝煙」の日々を無言で肯定している。
その姿は、祭りの華やぎから切り離された一幅の絵のように美しかった。
「皆さんはお元気ですか」
「ええ、賑やかよ。……オルヴァンは? 二十五でしょう、結婚はまだなの?」
「俺は生涯独身でいきます。家庭を戦場にするのは、性に合わないので」
答え方は穏やかだが、その奥には軍人特有の諦観が漂う。
叔母はどこか寂しげに目を伏せ、鞄から布に包んだ小箱を取り出した。
「覚えてる? 入隊した日に預かったものよ。親戚に返してほしいって、あの日……」
オルヴァンが小箱の蓋を開けると、
銀の懐中時計が、音もなく横たわっていた。
表面にヴァルハラート家の《
軍では、それを「
その所以は黒翼は「逃げない者の印」
鴉は死と戦場を知る鳥――だが必ず帰還する象徴でもある。
蓋の内側には、掠れた刻印が残されていた――
――Time is taken, then given again.
時は奪われ、また贈られる。
その一文に、父の影が胸の奥でゆっくりと疼いた。
「……運命ってやつは、ずいぶん悪趣味だ」
叔母が言いにくそうに話を切り出した。
「……ローエングラート少将からシグルド義兄さんの見舞金の話、聞いたわ。
ヴァルハラート公爵家に渡っていたとか」
叔母の表情が強張る。
ヴァルハラート公爵は王族筋の中でも軍務に直結する家系であり父シグルドの実家。父は酒場の娘に恋をして駆け落ちをし、オルヴァンを授かった。
母が二子を妊娠中に父の出兵が決まり、戦死した。母も産後の肥立ちで、生まれた弟もその後に続けて亡くなった。
「ああ。その話ですか…
ヴァルハラート公爵は弟の死亡報告を俺が死んだと勘違いしていたようですね。」
「そんな…いい加減な……」
「よくあることですよ。3歳にも満たない子供は、この国では『人間』として数えられもしない。戸籍に名前が載る前に消えた命なんて、あの家の人間にしてみれば、書き損じのインクの染みひとつと変わらないでしょう」
彼は自嘲するように、手元の銀時計を見つめた。
「謝罪金までつけて返すと言われましたが……もちろん断りました」
「どうして? もらってもいい権利は——」
「俺が受け取ったら、俺の人生が“あの家のもの”になるでしょう。
……俺の人生、いつから公開オークションになったんでしょうね」
叔母は何も言えなかった。
指先で弾かれた銀時計が、チチッ、と小さく時を刻む音を立てた。その音は、まるで自分を値踏みする競売人の木槌の音のようだ。
「ヴァルハラート公爵家は後継者が欲しいだけです。俺という人間ではなく、ただ絶えかけている『血の器』を買い戻したいだけだ」
叔母はかすかに悲しげな笑みを返した。
「これは俺からヴァルハラート公爵に返しておきますよ」
心底うんざりした声色に、叔母は「昔から変わらないわね」と笑った。
深夜色の髪を風に揺らしながら、オルヴァンは銀時計の蓋に刻まれた《
――ヴァルハラート公爵家。
彼が望まぬ“血”の証。
叔母は、ためらいがちに唇を開いた。
「……そういえばね」
まるで場の空気が変わるのを恐れるように、声は控えめだった。
「酒場で、客同士が話していたの。最近、大公家の周り……どうもきな臭いって」
オルヴァンは視線を時計から離し、わずかに片眉を上げた。
「反王政派と繋がってる、とか……そんな噂よ。あくまで噂。
でも、ああいう連中の話は広まりやすいからね」
叔母はカフェのテーブルに置かれた冷めかけの紅茶に目を落とした。
手は少しだけ震えているように見えた。
「……オルヴァンも、気をつけなさい。
軍にいると、知らないうちに巻き込まれたり……そういうこと、あるでしょう?」
叔母の震える指先が、冷めた紅茶の表面に小さな波紋を作った。
オルヴァンはその微かな揺れを見逃さなかった。市井の酒場にまで流れる噂は、もはや単なる噂ではない。それは、軍部の耳に入るより先に、民衆の不安という形で社会の底に溜まっていく「毒」だ。
「巻き込まれたくて軍に入ったわけじゃないですよ、叔母さん。……ですが、火事場の火の粉を払うのは、軍人の習性ですから」
彼は皮肉な笑みを浮かべ、銀時計をポケットへ滑り込ませた。布越しに伝わる冷たい重みは、これから彼が直面するであろう、ヴァルハラート公爵家という「望まぬ宿命」の予兆のようだった。
「平穏って、いつも人の手をすり抜けますね」
亡き父の面影も、奪われた家族も、少年兵として過ごした血の時間も、
失ったものと与えられたもののすべてがこの小さな銀時計に重なっている。
叔母は甥の横顔を見つめながら、声にならない祈りを胸に抱いた。
店を出る頃、叔母は名残惜しそうに立ち止まる。
「オルヴァン、今度はうち店にいらっしゃい。あのシチュー……オルヴァンはパンを浸して食べるの好きだったでしょう?
みんな会いたがってるの」
「そのうち顔を出しますよ」
オルヴァンは軽く肩をすくめ、柔らかな笑みを返した。
群衆へと戻っていく途中、懐中時計の重みを掌に感じる。
冷えた銀の表面が、まるで過去そのもののように沈んだ。
夕闇に溶け始めた街に、ガス灯が鈍い光を灯し始める。遠くで新式の蒸気機関車が吐き出す汽笛の音が、叔母の優しい声をかき消すように響いた。
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