第8話 終わったあとで

 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。


 兄は目を覚まし、しばらく天井を見つめていた。

 昨夜の数字も、言葉も、もう頭の中にはない。


 今日は、普通の日だ。


「起きて」


 妹が、隣の布団から顔を出す。


「学校、遅れるよ」


「……分かってる」


 兄は起き上がり、制服代わりの質素な服に袖を通す。

 王子でも、支配者でもない、ただの子どもの服だ。


 台所から、音がする。


「朝食の準備ができています」


 メイドの声。


 この家では、彼女は“使用人”でしかない。

 誰も、彼女が王城とこの家を行き来していることなど知らない。


 三人で囲む、小さな食卓。

 焼いたパンと、薄いスープ。


「今日は算数の小テストだっけ」


 メイドが、さりげなく言う。


 妹が顔をしかめた。


「うん……」


 兄は、パンをちぎりながら答える。


「昨日、少しだけ復習した」


「それで十分です」


 メイドは微笑む。

 その笑顔は、王城で見せるものより、ずっと柔らかい。


 城下では、まだ祝祭の余韻が残っていた。


 人々は昨夜の宴を語り、若き王を称えている。

 その声は、兄妹の耳にも届く。


「王さま、すごかったね」


 通りで、誰かが言う。


「本当に。

 あんな判断ができるなんて」


 妹は、歩きながら俯いた。


 兄は、何も言わない。


 学校では、いつも通りの一日が始まった。

 黒板、チョークの音、友達の笑い声。


 算数の小テスト。

 兄は、少しだけ考えてから答えを書いた。


 満点ではない。

 わざと、少し間違える。


 妹も同じだ。


 目立たないように。

 “普通”でいるために。


 昼休み。


「ねえ、昨日の王さまの話聞いた?」


 友達が、興奮気味に話しかけてくる。


「国を救ったんだって!」


「……そうなんだ」


 兄は曖昧に笑った。


 放課後、家に戻る。


 夕方の光の中で、兄妹は並んで歩いた。


「終わったね」


 妹が言う。


「ああ」


 兄は短く答える。


「でも、また始まる」


 その言葉に、妹は何も返さなかった。


 家に着くと、メイドが待っている。


「王城から、最終報告です」


 それは、仕事としての言葉だった。


「表の王子殿下と王女殿下は、国民から英雄として迎えられています」


 兄は頷く。


「それでいい」


 妹も、同意するように小さく頷いた。


 夜。


 机の明かりが灯る。


 そこは、誰も知らない執務室。

 影の玉座。


 兄は、椅子に腰掛け、紙を一枚取り出す。


「次は……」


 言葉を続けようとして、止めた。


 妹が、兄を見上げる。


「今日は、やめとこ」


 兄は一瞬考え、それから紙をしまった。


「……そうだな」


 メイドは、何も言わず、明かりを落とす。


 暗闇の中、兄妹は並んで座っていた。


 この国には、二つの玉座がある。


 一つは、光に照らされ、誰もが知っている。

 もう一つは、影の中にあり、誰にも見えない。


 けれど。


 国が今日も平和であるという事実だけは、

 そのどちらにも、等しく重なっていた。


 影の玉座に座る兄妹は、

 明日もまた、名もなき子どもとして生きていく。

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